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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

次に「過剰と儀礼」です。「人間とは過剰な存在である」という80年代的テーゼを出してみます。「はじめにEXCÈSがあった」という一文から始まる浅田彰さんの『構造と力』に戻ってみます。最近だとマインドワンダリングと呼ばれますが、人間の中には余っている認知エネルギーが自由に流動していて、一定の行為をする際には認知エネルギーがそのタスクに備給されることで、モヤモヤが解消されて落ち着くという話があります。人間の脳神経におけるエネルギー経済は、自由エネルギー原理という仮説で論じられることがあります。この辺りについては、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さんと松本卓也さんと一緒にやっている自閉症の研究会の場で話しています。

ざっくりとした話になってしまいますが、仮説としては、他の動物に比べて人間は思考と対象の一対一対応性が弱く思考が多義的になるからこそ、有限化が必要であるということです。要するに、人は躾なければならないわけです。こういうと保守的な感じがしますが。

「子供が泣いている、走り回る」これは自分の内的情動を捉えきれず、その情動と外的対象との繋がりも分からない状態です。かつて精神分析ではこうした状態を「寸断された身体」といった言葉で表現していました。「子供が泣いている、走り回る」そこに全てがあるのです。暴走族も同様です。暴走族は、フーコー的な言葉で言えば一定の規律訓練によってエネルギーの過剰を一定方向に整流化されたティーンエイジの段階において、それでも溢れ出てきてしまう自由な流動するエネルギーをどうしても爆発させなければ気が済まないのです。暴走族に限らず、我々が朝まで飲んで騒いだり、カラオケに行ったりするのも同様です。そういうエネルギーは通常状態では枠にはめられて「こうでなければならない」という形で規範化されています。人間は方向付けがなければめちゃくちゃな状態になってしまうというのが浅田彰さんの『構造と力』の前提でした。人間が過剰なものであるという仮説は神経科学の観点からも提示できるとは思いますが、人文系で最もその仮説を強く主張しているのは精神分析だと思います。いわゆるリビドー(最近のフロイト研究ではリビードと呼ぶようですが)、欲動と呼ばれるものが流動的に溢れている状態です。

さて、人間社会はそうした欲動を枠付けることによって運営されています。この枠付けのことを僕は「儀礼」と呼んでいます。人間にとって完全な自由はあり得ません。必ず人間は外的な枠に頼って思考し、行動します。子供の成育過程とは、親や環境から与えられた枠によって主体化していくということです。その枠に従属したり、その枠に反発したり、枠に対してねじれの位置を取ったりすることで子供は育っていくのです。一方では遺伝的素質も要素としてありますが、生育環境を重視するのが精神分析の考え方です。フロイトは成人のセクシュアリティの大部分は5歳位に決まると考えていました。

同性愛やトランスジェンダーに関して、最近は生まれつき説の主張が強まっています。というのは、「生まれつき同性愛者であった」のであれば権利主張がしやすいからです。しかし僕はそれに懐疑的です。あるいは、「産まれた時から男性の体で女性の心でした」ということに対しても同様です。セクシュアリティの成立には、遺伝的素質がある一方、後天的構築もあると考えられるからです。後天的構築を言うと「治せるだろう」という話になりかねないので、後天的構築の話はあまり触れないようになっていますが、精神分析の知見では幼少期の構築はほとんど治らないのです。後天的構築であったとしても解きほぐせない面が大きい神経科学と精神分析を掛け合わせるならば、先天的素質+幼少期の構築によって、その人のコアができるという仮説になります。

人間の流動性に対してある種の型をはめる。その型のことを僕は儀礼と呼んでいます。僕の儀礼の定義は、「ただそうだからそうだとしか言えないもの」です。本質的に理由はないのです。もちろん「これはこうだからこうする」と言いはするのですが、「なぜ」と更に突っ込みを入れるとどこかの段階で行き詰まります。根拠の遡りはある程度までしか人間には出来ません。人間の時間は有限で、根拠の遡りは原理的に無限に可能だからです。我々は常に途中で「まぁいいや」と根拠の遡行を停止しているのです。自然科学ですら同様です。自然科学でも検証手続きは一定のところで止める必要があるから止めているのです。そういう意味では、自然科学でも無根拠に根拠付けを止めるという文系的な基礎がどこかにあるのですが、そのことはみんな言わないようにしています。

特に家族における子育てにおいて、儀礼の暴力性は際立ちます。例えば「うちは冷やし中華にはハムは入れないんだ」というレベルで表れます。つまらない例ではありますが、人類文化にとって根本的なことが含まれています。ある種の限定というのは根本的には無根拠で、人間はそのことを受け入れています。時折「無根拠だろ!」と言う人が出てきて騒ぎになりますが、飲み込むしかないのです。ここがポイントです。根拠付けと無根拠の関係をメタ視点で捉えることが出来ることこそが人文系の最大のポイントであるというのが、僕が考えていることです。おそらく理科系ではこの問題をそのように捉えることは出来ません。もちろんこのように定式化をすることで論理の問題として理科系の人に引き受け直してもらうことは可能かもしれません。