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近代化再考

キーノートスピーカー
公文俊平(多摩大学情報社会学研究所所長)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、茂木健一郎、山崎元、上杉隆、和田秀樹

キーノートスピーチ:近代化再考

公文 近代化というキーワードから今後の行く末を考えるにあたり、まず近代化について定義しておきたい。経済学者は18〜19世紀、国際政治学者は17〜18世紀を近代化の出発点と位置づけているが、私は欧州が優位に立ち始めたその時期を「狭義の近代化」と捉えている。「広義の近代化」は、もう少し時間を遡って考える必要があるのだ。

「広義の近代化」は6世紀ごろ以降の封建化と呼ばれている時代を出発点と考えることができる。権力が分散・地域化した封建化の時代を「広義の近代化」の形成局面、分権化した地域権力が改めて集権化し国家化していく11〜15世紀を広義の近代化の出現局面、16〜20世紀の産業化により欧州が優位に立った時代を突破局面と考えたい。つまり、西欧的な意味での近代化(狭義の近代化)は「広義の近代化」の突破局面に当たり、21世紀から先は「広義の近代化」の成熟局面とみなすわけだ。

公文俊平氏

その上で、「狭義の近代化」に目を向けてみたい。従来の人類社会の進化の「三つの波」の議論では、「近代化」は18世紀後半以降の「工業社会」化の波を意味し、その前に農業社会化の波があり、その後にポスト工業社会(ポスト近代社会)化の波が来るとされることが普通であった。しかし、農業社会は少なくとも1万年以上続いているのに、工業社会はこれまでのところ400〜500年しか続いていない。その二つを並列させ、その次に「ポスト工業社会」が来ると想定するのは無理がありそうだ。

「狭義の近代化」を的確に捉えるには、もう少し時間軸を揃えた議論が望ましい。そこで私は近代化自体の中に「三つの波」と呼ぶことができる技術的エンパワーメントの過程があると考えてみた。16世紀後半からの軍事革命・軍事社会化の波を「狭義の近代化」の出現局面、18世紀後半からの産業革命・産業社会化の波を突破局面、20世紀後半の情報革命・情報社会化の波を成熟局面とするのだ。

狭義の近代化は16世紀後半から軍事・政治社会化として「出現」した。この時代の特徴は「政治の優越」、主権国家による「威のゲーム」の普及だ。次に、18世紀後半からは、産業・経済社会としての「突破」局面を迎える。この時代の特徴は「経済の優越」、産業企業による「富のゲーム」の普及だ。そして、20世紀後半からは、近代化が成熟局面に入り、情報・社交(ソーシャル)社会が来ると考える。それはどんな社会だろうか。

軍事社会では、主権国家とその国民、および国際社会という三つのシステムが共進化した。産業社会では、産業企業が中核になり、そのメンバーやステークホルダーとしての市民、および世界市場の三つが共進化した。そこから類推すると、情報社会では、主権国家と産業企業に並ぶ第三の新しい社会組織が生まれるだろう。私はそれを「情報智業」と名づけており、NGOやNPOがそれにあたる。また、そのメンバーやステークホルダーは、英語では“netizen”、中国語では「網民」と呼ばれているが、私は「知民」と呼んでいる。そして情報社会では、「情報智業」がプレイヤーとなる「智のゲーム」が普及する。情報智業のメンバーやステークホルダーが「知民」で、智のゲームのプレーされる場が「地球智場」になり、情報社会ではこの「知民」「智のゲーム」「地球智場」の三者が共進化するというのが私の考えである。

ここで情報化の本質を、軍事化や産業化と比較してみよう。産業化が機械を手段とする「商品」の生産・交換の過程なら、情報化はネットワークを手段とする「通識」(フリーな知識や情報)の共働創造・通有の過程になるだろう。

情報化社会の理念とは何か。戦争を通じて平和(Peace)を達成しようとしたのが軍事社会の理念であり、競争を通じ繁栄(Prosperity)を達成するのが産業社会だ。この2つのPがこれまでの近代社会の大きな理念だったとすれば、これからの情報社会の理念は「共働による共愉(Pleasure)の達成」になるだろう。

人々が「智のゲーム」に参加する動機は何か。「威のゲーム」では「国威」(脅迫・強制力)の増進と発揚が、「富のゲーム」では「富」(取引・搾取力)の蓄積と誇示がその動機であったが、「智のゲーム」の動機は「智」(説得・誘導力)、言い換えれば評判の獲得・発揮がその動機になる。そして「智のゲーム」が普及すると、国際社会での勢力均衡や世界市場での需給均衡に匹敵する「智場均衡」、つまり知の需給のバランスがとれる状態が出現すると共に、社会の知的発展が進むことが期待される。ただし「富のゲーム」が、経済発展を目指しながら独占や貧富の格差を生み出したことを考えると、「智のゲーム」でも同様のことが起こりうる。

このように現代は、情報社会という(狭義の)近代の成熟局面への入口だと捉えることができる。そこでは、もし歴史が繰り返すなら、かつての独立革命や市民革命と同じような、ある種の政治革命が起こるだろう。それは、過去の革命ほど血なまぐさくなく、あるいは「革命」よりも「祝祭」に近いものになるもしれないが、ともかく今、知民たちが政治に参加できるようになりつつあるのは事実だ。そして、産業社会の所有権や財産権に対応するような情報社会の情報権の制度化など、「智のゲーム」のルール作りが、今世紀の半ばから後半にかけての社会的な課題となるだろう。