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リベラル保守という構想

キーノートスピーカー
中島岳志(北海道大学法学部准教授)
ディスカッション
波頭亮、團紀彦、南場智子、西川伸一、茂木健一郎、山崎元、上杉隆、森本敏

では、何に依拠すれば、人間の秩序、社会の秩序を保てるかというと、実は理性を超えた存在にこそ英知が宿っているとバークは述べている。長い歴史の風雪に耐えてきた集団的な経験知、良識、伝統、慣習である。

このように、近代の理性主義のアンチテーゼとして保守思想が登場してきた。その結果、20世紀のヨーロッパの保守思想家が抵抗したのは、共産主義であり、ナチズムであった。誤謬なき理性によって進歩した社会を作り上げるという発想を徹底的に批判したのである。

一方、日本に目を戻せば、右翼と保守は決定的に違う。右翼の概念では日本の国体は「一君万民」というものである。超越的な天皇の下、すべての国民は平等で平準化されているという発想である。明治維新も、一君ではない幕府や大名から天皇へ実権を取り戻せというイデオロギーであった。だから、革命ではなく維新なのである。

この一君万民というイデオロギーが、その後の国体論を築き、北一輝や大川周明の昭和維新へとつながっていく。太陽である天皇が大地である国民にさんさんと陽を照らしているのに、それが国民に届かない――格差社会が広がり、庶民の生活が困窮しているのは、中空にかかった雲が天皇の陽をさえぎっているからだ。その雲こそ財閥であり、君側の奸(宮中の奸賊)であり、政党政治家である。これらを除去することでまた大御心を取り戻せる。彼らはそう考えた。

このことからも、右翼と保守が異なるのは明らかである。右翼には国体が現前すればすべてうまくいくという思想が根底にある。しかし、保守には過去に戻ったからといって過去にも問題はあったという冷静な諦観がその概念のなかにある。この点において、右翼と保守には決定的な差異がある。

また、保守の思想のなかにはトポス的人間という概念がある。劇作家の福田恆存は、人間は演劇的な動物であると主張している。人間は何にも縛られない自由を求めていない。自分がいることによって社会や家族がうまくいっているというような役割原理を味わうときに初めて自己は存在するというのである。これはまさに保守の考え方を的確に言い表している。

だから私は、派遣労働の問題には非常に批判的である。派遣労働は、あなたではなくても誰でもいいという代替可能性を個人に突きつけるからである。保守が雇用の安定を重視し、外国人労働者への労働市場の安易な開放に与することはできないと考えるのは、こうした人間観に基づいている。日本では、よく保守対リベラルという二元論が語られるが、政治学的には保守対リベラルという図式はおかしい。米国の特殊な政治事情に影響されているのだろうが、実は保守こそリベラルの源泉なのである。

リベラルの概念が出てきたのは、ヨーロッパの宗教対立から始まった三十年戦争である。血で血を洗う争いに疲弊したヨーロッパの人々は、発想が異なる異教に対しても寛容になることによって平和を保つヴェストファーレン条約を結び、ここに寛容としてのリベラルという概念が生まれた。そこから個人としての自由という概念が派生し、近代リベラリズムの内的な価値観に他者や権力は土足で踏み込まないという原則が出来上がっていったのである。

左翼=リベラルという議論も正しくない。北朝鮮を見れば、よくわかる。理知的で先進的な前衛が国家統制を行えばやがて理想社会が完成するという構想は、異論を投げかける人間への排他的弾圧を伴う。

しかし、リベラリズムは近代思想のなかで相対主義という問題にさらされることになる。あなたはイスラム教ですね、私はキリスト教です。その違いを認め合いましょう。けれど私とあなたが同じ真理を共有しているとは認められません。共通した土台は存在しないというのがヨーロッパ的相対主義をベースとしたリベラリズムの問題である。

一方、アジアの思想家たちは「多一論」というものを考えてきた。多一論を説明するにはガンジーの思想が最もわかりやすい。

山の頂は1つである。しかし、そこに至る登山口はいくつもある。さまざまな登り道が存在する。最終的に行き着くのは1つの頂上、それをガンジーは真理と捉えた。そして真理は1つだが、そこに至る道筋は複数あると考えたのである。1つの真理は世界に多元的に表れているという考え方は、仏教の「一即多多即一」という観念と同じである。また西田幾多郎のいう「多と一の絶対矛盾的自己同一」も同様である。

ヨーロッパの相対主義は、道の複数性そのものを争っている。それぞれの道を主張し、対立を超えられない。最終的には文明の衝突論に至ってしまう。

アジア主義者たちの欧米の植民地主義に対して連帯しようという構想は、日本の帝国主義に絡まれて泥まみれになってしまうが、その神髄は西洋近代の認識論を超えたアジア的認識論を打ち出すことによって近代の超克への道筋を捉えようとしたところにあるのではないか。

多一論的リベラルというものと保守の構造を掛け合わせることによって、アジアから新しい思想潮流を見いだすことができる。そして、そのことと格闘した西田哲学やさまざまなアジアの思想家たちに回帰することによって、新たな重要な道筋が見えてくるのではないか――それが私自身が考えている現在の課題である。