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戦後の「向こう」にあるものは

キーノートスピーカー
高橋源一郎(作家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、南場智子、西川伸一、茂木健一郎、山崎元、上杉隆

「信じられるのは言葉だけ」

バルト・クルマン論争を研究したのちに、親鸞の『歎異抄』を読み返しました。親鸞を徹底的に研究していたらそうとう詳しくなってしまって、昨年一年間だけで五回も本願寺で講演をしました(笑)。親鸞の浄土真宗を端的にいうと、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば浄土に行けるというものです。

この親鸞の考え方に対して、貞慶上人と明恵上人が反論しました。貞慶・明恵は、「念仏というものは本来、悟りを開きたいという菩提心や衆生の苦しみを救うものだ」という思いがあって、そのうえで阿弥陀にすがるために唱えるべきものだと考えました。菩提心もない者が「南無阿弥陀仏」と口だけで唱えるのは仏教の考えにそぐわないというのが、彼らの主張です。

貞慶・明恵が「口だけで念仏を唱えれば、それでいいのか」と親鸞・法然を批判したのに対し、親鸞は「口だけでいい」と述べています。親鸞・法然と貞慶・明恵の論争は、バルト・クルマン論争と同じ構図です。ただ、バルトとクルマンが論争したのは一九五〇年代ですが、親鸞・法然と、貞慶・明恵は、さらに七百年以上も前に同様の議論を展開していたのです。

念仏の回数も論争になりました。念仏を何十回も唱えないといけないのか、それとも一回唱えるだけで浄土に行けるのか。親鸞は、「一回でいい」と主張しています。それどころか、唱えなくてもいいとすら考えていたようです。

親鸞の考え方は、当時の社会情勢と関係しています。鎌倉時代では、民衆の大半は文字を判読できませんでした。文字を読めない民衆に、お経を教えて菩提心をもたせることは難しい。貞慶・明恵がいう、菩提心をもちお経を唱える宗教は、文字を読めるエリートだけが救われる宗教です。

一方で、あらゆる民衆の苦しみを救うのが宗教であるというのが、親鸞の考え方でした。親鸞は、修行はしなくていい、お経も読まなくてもいい、ただ一回「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰もが救われると説きました。貞慶・明恵の思想は、「正規」の考え方ですが、民衆の心に着地する言葉を発したのは、親鸞でした。念仏を唱えるだけの称名念仏に対しては、いまでも「言葉だけで浄土に行けるわけがない」といった批判があります。

「言葉だけ」という点においては、文学も同じです。一般的に、文学とは真実を言葉で表現するものだと考えられていますが、書いている人間からいわせてもらえば、文学は言葉だけです。真実があるかどうかはよくわかりません。「信じられるのは言葉だけ」というのが文学の立場であり、親鸞の考え方とまったく同じです。

ここまでの話を整理すると、岸さんの『断片的なものの社会学』、バルト・クルマン論争、親鸞の称名念仏の三つに共通しているのは、「正規」の考え方に立ち向かう姿勢です。

「正規」の思考は論理的で、一対一の対称性があり、ストーリーがあります。そういう「正規」の思考に私たちは洗脳され、閉じ込められています。だけどじつは、非論理的で、非対称的で、断片的な考え方のなかにこそ、自由の可能性があるのではないでしょうか。

「正しさ」に抵抗して複雑さに立てこもる

では、「正規」の思考から逃れるにはどうすればよいのでしょうか。一つのヒントになるのは、文学がもっている複雑性だと思います。

二〇一四年にロシアがクリミア半島に侵攻したとき、『現代思想』で特集が組まれました。特集にはロシア人の作家が三名並んでおり、「クリミア問題を論じるのに、なぜ作家が入っているのか」と私は不思議に思いました。

専門家たちがロシアのクリミア侵攻は正しいか否かを論じている一方で、作家のリュドミラ・ウリツカヤだけは侵攻の当否についてはいっさい論じず、クリミアそのものを描写しました。彼女は幼少期に、クリミアの保養地に何度も足を運んだ経験があり、「クリミアは第二の故郷」という思いがあったそうです。彼女は作家として、クリミアの空気や人びとの声を描いたのです。

ウリツカヤの描写を読んでハッとしたのは、彼女の文章にはクリミアが確かに存在していたことです。専門家たちの文章は、ロシアが正しいか、ウクライナが正しいかを論じているだけで、クリミアの存在が感じられませんでした。私たちはクリミアに行ったことがなくても、クリミア侵攻が正しいかどうかを論じることができます。そしていったん論争が始まると、「正しいか正しくないか」という単純化された世界のなかに巻き込まれてしまう。

クリミアのことをよく知っているウリツカヤは、「正しさ」を論じず、クリミアがそこに「ある」ということを証明しようと試みました。「正しさ」に抵抗して「複雑さ」に立てこもるのが、ウリツカヤの戦略だったのだと思います。これこそまさに作家の仕事です。

作家は二千年以上の年数を掛けて、単純化や合理性、正しさといった正規の思考に抵抗する手法を磨いてきました。幸いにも、私たち作家は「正しさ」からはつねに遠く離れています(笑)。今後、社会が論理性や合理性で満ち溢れていくほど、文学の出番はますます増えるのではないかと、私は楽観的に考えています。