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中動態の世界―意志と責任の考古学

キーノートスピーカー
國分功一郎(高崎経済大学経済学部准教授)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、山崎元、上杉隆

キーノートスピーチ:「中動態」とは何か

國分 「中動態」という言葉は聞き慣れないと思いますが、じつは現代社会のさまざまな問題と密接に関係しています。

たとえばまず、「謝る」という行為を考えてみます。仕事や日常生活において、「すみませんでした」と頭を下げる場面はよくあると思います。では、謝る行為は能動的に自分がしていることなのか、受動的にさせられていることなのか、どちらでしょうか。謝りたくて謝っているわけではないから、能動的とはいえないでしょう。ならば受動的かというと、そうともいえない。むしろ「あれは誤りだった」という後悔の気持ちが心のなかに生じること、それが謝ることの本質です。

私が中動態ということを意識するきっかけになったのは、アルコール依存症や薬物依存症の人たちとの出会いでした。一般的に、依存状態から抜けられない人は「意志が弱い」と見なされるのですが、彼らは自分の意志で選択して依存症になったわけではありません。

國分功一郎氏

依存症というのは、基本的に精神疾患です。自分の意志で依存症になったわけではないのですから、それを自分の意志で克服するのは無理なのです。これは一例ですけれども、人間の行為を能動と受動だけに二分する発想では、社会におけるさまざまな問題の本質が見えなくなってしまいます。

僕らのまわりにはこうした能動とも受動ともいえない曖昧な行為や状態が数多く存在している。にもかかわらず、私たちはそのことをあまり理解していません。

そんな問題意識をもって言語の歴史を遡ってみると、かつて、言語のなかに「能動態」と「受動態」に加えて「中動態」という文法事項があったことに気が付きます。より正確にいうと、インド=ヨーロッパ語族の諸言語はいずれも、この「中動態」という態をもっていたんですね。

「中動態 Middle voice」という名称ゆえに、これは能動態と受動態の「中間middle」にあるものと思われてしまうかもしれません。でもそうではないんです。いまは能動態と受動態が対立していますが、かつては能動態と中動態が対立していて、受動の意味は中動態がもつ意味の一つにすぎなかった。しかし長い時間をかけて、中動態はほとんど姿を消します。受動態がそれに取って代わったんですね。

では「中動態」はどういう意味をもっているのかということですが、参考になるのはフランスの言語学者エミール・バンヴェニストの定義です。バンヴェニストはこういっています。「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。

これだけだとわかりにくいかもしれませんが、いっていることは簡単です。動作が主語の外で終わるのが能動態。それに対して、主語が動作や出来事の場所になるのが中動態です。「する」(能動)か「される」(受動)ではなくて、主語の「外」(能動)か「内」(中動)かが問題になると覚えるとわかりやすいと思います。

ギリシア語には、中動態のみを取る動詞として「惚ほれる」「欲する」などがあります。たしかに「よし、惚れるぞ」と思って相手に惚れることはできないし、誰かに「惚れろよ」と命じられて惚れることもできない。自己の内部に誰かを好きになるエネルギーが生じる過程を表すのがこの言葉ですね。まさに中動態です。「欲する」も同様で、自分自身が欲望というエネルギーのうごめく場所になっている。他方、「曲げる」とか「与える」のように、動作が主語の占める場の外で完結する動詞は「能動態」です。

ギリシア語の動詞の多くが、能動態にも中動態にも活用できます。たとえば「統治する」を意味する動詞は、能動態なら「ポリテウエイン」に、中動態なら「ポリテウエスタイ」に活用する。都市国家を意味する「ポリス」と関係する動詞ですね。

能動態の「ポリテウエイン」は、外側で完結するような統治の仕方です。たとえばペルシアの王様が、ギリシアのポリスを統治するような場合には、能動態の「ポリテウエイン」が使われる。

それに対し、アテナイの民主制において市民が自分たちで自分たちを統治する場合には、中動態で「ポリテウエスタイ」といわれます。市民という主語が統治の場所であるからです。これは非常にわかりやすい例だと思います。