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中動態の世界―意志と責任の考古学

キーノートスピーカー
國分功一郎(高崎経済大学経済学部准教授)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、山崎元、上杉隆

ディスカッション

波頭 人間における「意志」の発芽というお話がありましたが、もともとキリスト教では神の意志が絶対であり、人間は受動的に生きているという認識ですね。意志という概念がキリスト教の拡大とともに次第に人間に普遍していったというのは、合点がいきました。

西川 ユダヤ教についてもいえることですが、そもそも意志がないと「最後の審判」ができません。ユダヤ教やキリスト教のスキーム(枠組み)は一見、神のもとにすべてが定められており、個人的な意志はほとんど介在しないというスタンスですが、実際は意志があるといえます。

波頭 最後の審判やアリストテレスの議論のように、昔の人間の責任の問い方は行為主義的だったと思います。意志は目に見えないから、さしあたり事実として見える行為のみを処罰していた。個人の意志を問うようになったのは、近代化の影響でしょう。

もう一つ、國分先生の「義が堕落していった」という解釈は興味深いですね。

國分 私は、「意志」は批判したいけれども「責任」は大事だ、と思っているんです。その責任をめぐる理論をどのように構築したらよいかを現在、考えている途中です。

山崎 経済の観点から見ると、他人に不利益を与える行為をしたら弁償をしなければいけないように、交換経済を成立させるうえで行為と責任を結び付ける仕組みが必要だったのではないかと思います。物も行為も誰かに所有させることによって、交換可能なものにしなければいけなかった。

國分 行為が交換可能かはわからないのですが、たとえば「罪を犯した者をどこまで苦しませるか」という刑罰のかたちで「行為の計量化」は現に行なわれていますね。

山崎 おそらくサービスに価格を付与することによって、行為は交換されているのでしょう。医者の診療もマッサージも、価格をつけることでほかの物と交換できるようになる。

波頭 交換経済は主に市場を通じての交換ですが、市場原理以外のかたちもありえますね。

西川 文化人類学的な観点から見ても、行為の交換というものはありますね。たとえばアメリカン・インディアンは互いに贈り物をする儀式を行なうことで、物とともに行為を交換しています。

島田 先ほどの「義」に関していえば、契約を通じた経済活動における交換には関係性が明確ですが、「義」という言葉は「回り回ってお返しをすればいい」という一種の共存・共生によるファジーな世界観を連想させますね。

また、キリスト教が行為の「責任」を明確にしたのではないかというお話は、時間の捉え方と深い関係があるように思います。自然宗教的な世界では、時間とは暦のもとで神事を毎年、繰り返す循環的なものです。一方、キリスト教では始まりと終わりを直線的に結び付ける。そこから信者の現世で為した因果が最後の審判で結審する、という形式が成り立つわけです。

最後の審判を成立させるためには、西川さんがおっしゃったように、行為の主語をはっきりさせることが必要です。日本語では主語を省いても何となく意味が通じますが、英語の場合、主語で動詞の活用が決まってしまう。したがって、主語をまず決めないと文が成り立たない。文法レベルにおいても、日本語のほうが中動態との親和性が高いですね。

國分 世界のなかで日本語や日本文化が特殊なのではなく、中動態的なものを維持してきた文化と、もともとあった中動態を革命によって消してしまった文化があると考えることができます。そう考えるといわゆる「日本特殊論」に陥らずに済むんですね。

西川 日本の地方の言葉には、よい意味で「自他の緩み」があるんじゃないかと思います。以前に熊本大学の教授をしていたのですが、熊本では「行く」のことを「来るけんね」といっていました。各地の方言もまた、中動的な気がします。

國分 北海道や青森では、「押す」ことを「押ささる」というそうですね。

山崎 私は北海道出身ですけれど、たしかに「押ささる」というと、意志を離れてつい何となくそこを押してしまう、というニュアンスがありますね。

國分 面白いですね。現象としてたんにスイッチが押されているということなんですか。

山崎 ただ、自分が選択して押したというよりは、やはりそこにスイッチがあると自然と「押ささって」しまうわけですよ(笑)。

波頭 近代的自我の概念が芽生えたのはだいたい十六世紀ごろで、それ以前は明確なものではなかった。ギリシア以前は中動態の世界があったけれども、人間が妙に賢くなったせいで「自分が決めている」と思い込むようになり、能動態と受動態という単純な構図になったのでしょう。

山崎 主体的な選択によって自らの人生を歩むのが人間であり、それが人間の尊厳であるという考え方ですね。

島田 自己実現に向かう考え方そのものは、ほとんどキリスト教のスタイルの焼き直しですよね。

國分 十六、十七世紀くらいからモダンな主体ができてくるとして、それに対する反省として二十世紀にはポストモダンの哲学がありました。僕は古代に遡ることでポストモダンの哲学を徹底したいと思っているんです。

上杉 私は「意志」とAI(人工知能)の関係を考えながら、先ほどのお話を聞きました。たとえばAIを搭載した機械で事故があったとき、責任を問われるのは開発者の意志なのか、それとも使用者の意志なのか。

國分 AIの意志については私もよくわかりませんが、たとえばAIを搭載した車で事故があった際、「責任」の所在を法律的に整備することはそれほど難しいことではないと思います。AIを研究しているフランスの哲学者によると、いまは「欲望するAI」が開発されつつあるそうです。AIの「意志」よりもさらに「欲望」のほうが今後、大きな社会問題になる気がしています。

西川 AIは基本的にマシーン・ラーニングですから、一定のアルゴリズムを設定したのちに、ランダムに物事を学習していく。これはある意味で、人間の脳と構造は同じです。そこで新たに出てくる問題は、AIのモチベーション(動機付け)をどうするか。脳の場合はモチベーションを司る部位が侵おかされると、新しい物事を学習する意欲がなくなってしまう。國分さんがおっしゃった「欲望するAI」の話は人間同様、新たなリビドー(強い衝動、欲求)論に繫がると思います。

國分 AIの欲望を考えるにせよ、その意志を考えるにせよ、まずは言葉の定義を明確にすることが必要です。先ほど説明したとおり、意志の概念は矛盾しています。けれども僕らはそういうことを考えないでこの言葉を使っている。ここに哲学の出番があると思うんです。哲学ならば、誰でも知っているけれども、誰もよくわかっていない言葉を正確に分析することができますからね。