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日本の科学は「歴史観」を失っている

キーノートスピーカー
西川伸一(オール・アバウト・サイエンス・ジャパン代表)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、團紀彦、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

ディスカッション

島田 現代において、科学研究はその領域を大きく拡大しないと限界であるということがよくわかりました。現在、成果至上主義や効率至上主義があらゆる領域に及んでいる中で、もっとフリーな思考の形態を持って科学研究の方法論の見直しが必要だということですね。

それは人間の脳や心にあるものを開拓するというか、フロイトやユングの深層心理や集合無意識の領域にも関わってくるのではないでしょうか。そういうところに、サイエンスの目が向いてきたことは非常に興味深い。

西川 すでに行われている科学研究の新しい具体的な活動を⼀つ挙げると、東京藝術大学の学生と東京にいる医学部の学生が⼀緒に研究を行なっている「AMS(Arts Meet Science)」というプロジェクトがあります。芸術と医学という学際で共同研究をやると、例えば音楽による病気の治療効果など、面白い研究テーマがいろいろと出てきます。

このプロジェクトとは別ですが、優秀な藝大生に贈られる安宅賞を、ゲノムの芸術作品を作った藝大生が受賞したという事例もあります。

AMSに関わって芸大の学生さんと話し合うことで気がつくこともあります。例えば、ふつう人は鏡を見ないと自分の顔は描けませんよね。でも、藝大の人はみんな鏡がなくてもふつうに描けるのです。

島田 まったく異なるジャンルであるアートとサイエンスは、頭脳の使い方がまったく違うという認識がこれまで常識でした。しかし、昨今では双方の互換性を模索するようにサイエンスからエンカレッジされてアートを模索する例や、その逆の例も出てきています。

西川 科学者がアートを模索する例、芸術家が科学を模索する例、両方ありますね。

島田 サイエンスではほとんど使わない直感やひらめきなどアートの感性を、サイエンスが模索するということですね。脳には右脳と左脳の両方あります。あるいは意識と無意識の違いもありあますが、本来そういう異なるものの相互作用の中から優れた発想は出てきます。

現下のコロナ禍においては、人々の移動や社会的振る舞いが慎まれ、⼀人でいたり、散歩してりする時間が⻑かったりしています。これは普段使っていない脳の働きを自覚する機会にもなっているのかもしれません。

西川 私としても、科学の面だけを押し出すことに対して少々反省しています。最近マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者の著作(『なぜ世界は存在しないのか』と『「私」は脳ではない』)を2冊読んだのですが、彼は非常に優れた哲学者だと感じました。

なぜなら、宗教から科学まですべてを優劣なく考える時代が来たという感覚を持っているからです。そういう思考の整理をしていくことが大事です。

言うなら、科学とは手続き論のことです。科学には、どうすれば他人とコンセンサスが取れるのかという手続きはあるが、実は他に中身のあるものがもともと何もないということです。ここから再スタートすることが大事だと思っています。

山崎 日本では哲学と科学が別々のものとして扱われています。しかし、本来は古代ギリシャのアリストテレスから脈々と受け継がれてきている知の体系としての哲学の中に科学が含まれているのです。そういった感覚を日本人は持っていません。

それゆえ、日本では科学は物理的な因果性の解明を行うものであるとして、狭く捉えられてしまっています。大学においても、基礎研究は理学部、応用は工学部、倫理や道徳は文学部となっています。東大では進路の振り分けにおいて、特に理系の学生はどの分野に行けるのかと大いに悩む。専門が異なると、まったく世界がちがう。

しかし、本来の科学はもっと広く捉えられるべきではないでしょうか。例えば、倫理や道徳の問題として扱われている人間行動について、その行動の際に脳内で起きていることを分析したり、その行動をアルゴリズムに置き換えたりといった研究や、人間を情報処理システムとして捉えて見るとどのように人間を理解できるのかといった研究のように、科学が扱う範囲は広がりを持っています。

西川 今の山崎さんの広くとらえるという話は、いわゆる17世紀の3哲人の最大の課題でした。3哲人とはデカルト、スピノザ、ライプニッツです。例えば、デカルトは「わからないことは放っておけ」と確か言いましたが、その⼀方で、それをなんとか乗り越えようという哲学の課題もまた同時にあったのです。

ただ、19世紀以降科学と哲学は分離していきます。日本ではそれが著名ですが、それは決して日本だけの話ではありません。ただアメリカの最近の哲学を見ると、脳や意識といったテーマを媒介にしてわからないことを考えようという新たな動きも出ています。

 明治維新の時に、メタフィジカルとフィジカルを「形而上」、「形而下」という、上と下という言葉で翻訳したのが非常に良くなかったと思います。もう誤訳に等しい。

そうすると、サイエンスは形而上になるのか、形而下になるのか。そう区別しても、もはや何も始まらないのですが、すでに言葉は存在してしまっています。「建築は形而下の最たるものだから、建築家が共生の思想などの哲学を語る必要もない。」ということになってしまう。⿊川紀章さんの提唱された共生の思想は、日本の哲学界から最も理解されていません。

しかし実際は、フィジカルとメタフィジカルの間を行ったり来たりするところに価値があって、ある意味、そここそが科学の本質です。そう考えると、明治維新時の誤訳の罪は大きい。もう⼀回、そういうこと(フィジカルとメタフィジカルの間を行ったり来たりする)に思いを馳せたほうがいいのではないでしょうか。

西川 明治時代の哲学用語の翻訳では、「understanding」が「悟性」と訳されています。言葉の違いによる影響は確かにあるでしょう。

島田 明治維新のときに導入した⻄欧の哲学や世界観、時間感覚などは、もうほとんど残っていませんが、その名残が古典文学にはけっこうあります。

時間の捉え方で古典文学を読むと、時空は自由自在。古典はリニアな線的時間軸ではなく、農⺠的というか循環的な時間軸の中にあります。

例えば、自分の想念は⼀つのテーマで延々と考えていくものではないため、随時雑念も入って、あちらこちらに飛ぶし、現在、過去、未来が整然と並んでいるわけではなくて、今考えていることに過去を合わせたり、未来に思いを馳せたりします。

そのように、人は同時並列的に思考しています。そして、その脳の思考の状態のまま言語化(言葉を発する)しています。これをアルゴリズムや時系列や文法というフォーマットに落とし込むと、確かに説得力は増すでしょう。しかし、人の思考とは本来もっと自由であるはずです。

小説の発想でいうと、時系列は崩して、突然回想シーンが入ったり、100年前のエピソードが語られたりします。これはある種、フィクションの世界です。具体的な例では、クリストファー・ノーラン監督のタイムサスペンスドラマ『TENETテネット』という作品が最近出ましたが、この監督は多元宇宙論を多く映像化しています。

過去・現在・未来の時間軸の中で整合的な形式ではなく、自由自在に過去・現在・未来を飛んでいける。同時並列的にパラレルワールドがあって、少なくとも意識の上では、回想したり、夢を見たりという営みを含めて脳の働きだと考えれば、人は別の世界に常にワープし続けることができます。

ということは、脳の働き自体が四次元的、あるいは五次元的になっている。そのように脳の構造を認識し直せば、段取りや形式などは全部踏み越えて、脳の中で起きている状態そのままに世界を認識することも可能です。フィクションの世界では、そういう空間、時空が作られています。

カントは散歩の達人でしたが、日常ルーティンの散歩の中で、いろいろな刺激を受けることで、今の思考とは異なる雑念が入ってきて、それを契機に別の思考を進行させ、そして、ある時、ふっと閃いた!となったりします。

カントが掲げた「perpetual peace(永遠平和)」という概念は、彼が散歩中に何気に見た、葬儀屋の看板の文字から発想したそうです。人はそういうランダムな思考の中から発想を起こすものです。