Report 活動報告詳細

HOME>活動報告一覧>転換期を迎えた4つの方法論:揺り戻しかアウフヘーベンか

転換期を迎えた4つの方法論:揺り戻しかアウフヘーベンか

キーノートスピーカー
波頭亮(評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、神保哲生、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

波頭 かつて革命軍は必ず始めに放送局を占拠しましたね。

神保 そうです。放送局と空港を同時に抑えて情報を支配するのです。テレビの時代の前は新聞社が占拠されました。

また、反政府軍を鎮圧する場合は、プロパガンダの印刷物のガリ版を刷っている人物を見つけて拷問し、摘発することが必須でした。

このように、情報は⻑らく放送局と出版物という限定されたものだったのですが、それが最近ではインターネットに取って代わり、情報流通は無限化してしまったのです。

インターネットはあまりに大きな存在で、かつ様々な意味があるため、どのような影響が具体的にあるかは、まだまだ先にならないと、はっきりとはわかりません。

基本インターネットは、メディア学から見ると、活版印刷のグーテンベルグ以降、500年来の大革命です。この革命によって、情報を伝える伝送路が限られたものから無限化したため、情報を一元管理することが政府にも誰にもできなくなってしまった。

ミャンマーの軍事政権のように、クーデターのときにインターネットを止めることで、情報の一元管理は可能かもしれません。しかし、実際はミャンマーのケースでも情報統制はなかなかうまくいっていません。

インターネットの情報統制は極めて困難ですが、中国政府のようにグーグルやツイッター、フェイスブックなどの海外SNSは使えないようにし、同時に中国独自のSNSを大衆に与えて楽しめるようにする。そうしておけば、強権発動を持って外部情報を完全に遮断することも可能になるでしょう。

これ以外の方法では、もう情報統制はまずできないのが実態です。このような旧来の伝送路の希少性に依存するビジネスモデルだったため、既存マスメディアの会社は⻑らく存続してこれたのです。

私はこの20年、既存マスメディアの中ではなく、インターネットでメディア発信をしてきました。米コロンビア大のジャーナリズム大学院を出た後、アメリカの報道機関に所属していましたが、伝送路が無限化したため、自分で新しいメディアを作ろうと20年間、悪戦苦闘してきました。

ネットのメディアを⻑らく運営してきた私の目から見ると、伝送路が稀少だった時代は、マスメディアはなんと楽なビジネスだったのかという印象です。ハードウエアによって寡占状態が保証されていた世界ですから当然です。

地上放送の電波もアナログの時代は、割り当てられるVH波は7波しか取れませんから、7社しか参入できません。このように放送局も稀少だから1社も潰れません。

日本の新聞社を振り返ると、1940年前後に「新聞統制」というオペレーションがあり、これで新聞社は1県1紙に合併させられました。検閲が大変だからというのが理由だったようです。

戦後はGHQも同じく検閲が楽だからと戦時中のこの統制を廃止せず、今日まで基本、続いてしまっています。今も地方新聞が2紙ある都道府県は福島県と沖縄県の2つしかありません。事実上新聞は寡占です。

このような状況のところへ情報の伝送路が無限となるインターネットの時代がきて、従来の⺠主的なプロセスによって社会的コンセンサスを得ていくことは絶望的になったと思います。

なぜなら、伝送路が無限化した今、どんなに崇高な理屈がでても、ネトウヨはこう言うし、他の人々はこう言うしという状況になり、意見が収斂されることがないからです。これまでの⺠主主義の形のもとではコンセンサスは絶対に取れないでしょう。

日本は欧米と比べて、今もまだ既存メディアの集中度が高い状態です。欧米ではあり得ないのですが、テレビの放送免許も政府が与えています。欧米では、政府は取材対象のため、中⽴を保つよう、免許を与えるのはアメリカの場合だったらFCC(FederalCommunicationsCommission)のような政府ではない第三者機関になっているのが常識です。

ところが、日本は総務省がそのまま免許を与えているのです。余談になりますが、戦争が終わった直後にGHQがきて、彼らが最初にやったことは何だったのかと言うと、電波監理委員会を作ることでした。電波監理委員会は、FCCの直訳です。この委員会が有識者の委員によって免許を付与するシステムを作ったのです。

ところが、サンフランシスコ講和条約に署名して日本が独⽴国となって施政権を獲得したとき、最初の国会で最初に通した法律が、この電波法の改正でした。電波監理委員会を廃止し、政府が免許を与える形に改正した(戻した)のです。

なぜ、戻したのか。当時の政治状況だと、共産化が怖かったのかもしれません。他の動機だったのかもしれません。しかし、いずれにしても放送を抑えることが政府の生命線だとわかっている人たちが、当時の政府内にはいたのです。

もしマスコミがアメリカのように市⺠側のものになってしまったら、日本の場合、官僚機構や従来の政治機構は維持できないとわかっていたということです。