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転換期を迎えた4つの方法論:揺り戻しかアウフヘーベンか

キーノートスピーカー
波頭亮(評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、神保哲生、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

島田 神保さんの会社「ビデオニュース・ドットコム」は、昔の言い方をすると、新聞のクオリティペーパーに近いのではないですか?つまり社説や論説で売る事業です。

神保 そうならざるを得ないということです。最低限のコストで最大限の売上をあげられる番組をどう作るかだけを考えた結果、かろうじて9年目あたりに⿊字化しました。本当はもっときちっとした報道をやりたいのですが、報道自体の利益率が低いため、なかなか難しいのが実態です。

アメリカでは、最近は下火になってしまったのですが、5年くらい前まで、新聞社がバタバタ倒れていたため、政府が報道機関へ公的資金を入れるべきかどうかワシントンで広く議論がされていました。

公的資金を入れても、政府に介入されない仕組みをどう作るか。それをかなり広く議論していましたが、その後、廃刊、倒産ラッシュがひと段落したこと、ウォーレン・バフェットなど地方紙をどんどん買い取る出資者が現れたため、公的資金を入れて救済する議論は下火になっています。

ただ、アメリカでは今、国土面積の三分の一くらいの地方がメディアバキューム(そのエリアをカバーする地方紙がない状態)になっています。そういう地域は決まって、市⻑の給料が非常に上がっていたりします。

有名なのはカリフォルニア州のベル市です。人口数万の都市の市⻑の給料がアメリカ大統領の給料よりも高くなっていて、市は債権を乱発して事実上、財政破綻状態になっていた。しかし、地方紙がないから、市⺠の多くが市のそういう惨状を知らなかったのです。

ある日、ロサンゼルスタイムスの記者が別の取材でベル市に来て、たまたまこの事実を聞いて、市に情報公開請求をして報道がなされ、市⻑と議会の議⻑がともに逮捕されました。これはギリギリでメディアが機能した典型例の一つです。

他にも全米にはローカルな新聞がまったくない地域がいっぱいあるので、探れば不正などいろいろな出来事が出てくるでしょう。ネットが普及するこの20年間、アメリカの地方紙は廃刊ラッシュが続いてきたのです。

一方、日本では地方紙がほぼ一紙独占体制なので、まだまだ廃刊ラッシュにはなっていません。とはいえ、苦しくなった地方の新聞社が全国紙に出資を仰ぎ、その傘下に入っているというケースもあります。

波頭 メディアには夢を感じられない方向のお話でしたが、ということは新しい道徳や倫理もメディアからは当面難しいということですか?

神保 メディアはこれまで温室の中で特権階級を享受しすぎてしまったので、新しいメディア環境になかなか対応できない。対応しようとすれば自分たちの首を絞めるから、あえて対応しないという状況が構造的にあるということです。

しかし、メディアは競争力を追求すれば、ネットの新しい市場環境でも、公共的な報道は可能だと私は思っています。

我々は希望を捨てていないから「ビデオニュース・ドットコム」を多勢に無勢で、諦めずにやっているのです。既存メディアがダメだから、⺠主主義もダメだと結論づけるのはまだ時期早尚だと考えています。

波頭 もちろんそうだと思います。私がさきほど発表した一つのメッセージは、経済合理性、経済利得の観点で得な方ばかりを各人が選んでいる時代になったということです。

わかりやすい話でいうと、200年前は、「お天道様に恥ずかしくない」という観点から人々が行動を決めていた部分があったことです。あるいは島田さんが言った、教養主義が死に絶えたことです。

今の神保さんのお話でも「諦めずにやっている」という表現が出ましたが、それもやはり経済合理性を前提とした話だと言えそうです。そもそも判断軸自体を経済合理性、利得以外のものにシフトだせないかぎり、人類の暴走は止まらないと思います。

神様のご意向に合うかどうかが行動の原則だったものが、自然科学や理性、人間性が原則にシフトしたのが中世のルネッサンスでした。

そして、理性や人間性の原則が今、経済的利得と経済合理性がすべての判断基準になってしまった。これを道徳的なものに変えないと、人類はこの先サバイブできないでしょう。

今や教育とメディアも経済的利得と経済合理性の世界になってしまっていますが、この教育とメディアが変われば、世の中が道徳へと転換する一つのルートが開かれるのでしょう。

西川 メディアは特にそうですね。

波頭 ある日突然、教育とメディアが雷に打たれたように、すべて善なる人に変わっていた。そういう神の秘跡に変わるようなものはないのでしょうか。

一つの可能性として、現実の経済合理性に⽴脚しながら、ルソーの社会契約論的(人⺠主権、⺠主主義)にコンセンサスを取れるのが、ベーシックインカム(BI)だと思います。

食える食えないという生活の心配がなかったら、みんな意に反することには屈服しにくくなるから、人間はもっと教養的なものに寄り添えるのではないでしょうか。

それでBIが是非とも必要だと思うのですが、BIもまた経済合理性の観点から野党ですら必要だとは言いません。誰かが必要性を説いても、メディアも大々的には取り上げません。

60年代の日米安保の時代は、あれだけの反対デモが起き、火炎瓶まで投げていたのに比べたらBIは社会的親和性が高く、恩恵を被る人が多い。なのにまったく広がりません。

西川 BIの導入を⺠主的に決める。それは非常に大きな話です。みんな上から目線で考えているから難しいですね。

山崎 BIの仕組みは課税との差し引きと考えれば理解しやすいのですが、それを報道やコミュニケーションで広く伝えるのは大変難しいでしょう。

島田 共産主義は悪という奇妙な偏見もメディアを通して今も流通しているくらいですから。

斎藤幸平氏は著書『人新世の「資本論」』のなかで、かつてのソ連や中国の共産主義は悪だったという意見に対して、共産主義は悪ではなく、単なる官僚主義であると言っています。その意味では官僚主体による官僚制資本主義である点はアメリカも今の中国も同じです。