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22世紀の民主主義

キーノートスピーカー
成田悠輔(経済学者)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、茂木健一郎、山口周、山崎元

「民主主義の呪い」の内実

民主主義的な国々ほど、経済成長をはじめとするさまざまな領域におけるパフォーマンスが停滞を見せつつある。こうした「民主主義の呪い」は、どのようなメカニズムで起こっているものなのか。それを考えていくにあたって外せないのが、民主主義の劣化ないし「質の低下」という論点です。

ここ20年くらいよく議論されていることに、民主主義社会が十全に機能するための基本的な要件がだんだん壊れつつあるのではないか、という問題があります。つまり、政治的な分断や二極化が極端に進んだり、政治家や政党がパブリックな場でヘイトスピーチ同然の発言をためらいなくするようになったり、リベラリズムの基本的な前提に反する発言がごく問題なくなされるようになったり、といったことが、近年ごく当たり前のように起こっています。保護主義的な貿易政策などの自国第一主義的な動きの強まりも、ある意味では民主主義に逆行する典型的な動きでしょう。まさしくこの象徴がトランプ米大統領だったわけですが、こうした変化はトランプ現象に限らず、またアメリカ国内外を問わず、いろいろなかたちで現れているように見えます。

そして皮肉なことに、こうした民主主義の基本的な要件の毀損が、民主主義的な国々ほど顕著に進んでいることが、さまざまなデータからわかります。

たとえば、外国人やマイノリティに対するヘイトスピーチについて見てみます。容易に予想できることかと思いますが、ヘイトスピーチはここ20年くらいで、絶対量が全世界的に増えています。重要なのは、変化の度合いがどういった国で特に大きいかということです。図7は、V-Demという国際シンクタンクが公表しているヘイトスピーチについてのデータをもとに作成したグラフです。横軸にはこれまでのグラフでも用いてきた民主主義指数を、そして縦軸には各国におけるヘイトスピーチの増加度合いを示す値をとっています。

図7

ここからは、民主主義的な国々ほどヘイトスピーチの増え方が大きい傾向にあることが見て取れます。つまり、ヘイトスピーチの多寡を民主主義の質の一つの指標と見るならば、民主主義の質の低下は、もともと民主主義的な国でこそ激しく進んでいるといえるわけです。まったく同じような傾向は、他のさまざまな指標についても当てはまります。もともと民主主義的だった国々ほど、政治的なイデオロギーの二極化・極端化、ポピュリズムや反リベラリズムの台頭、保護主義的な貿易政策に象徴される自国第一主義の強まりといった傾向が顕著に見られるわけです。

こうした傾向は、経済政策や経済活動にも影響を及ぼすと考えられます。つまり、排他的で頑迷になればなるほど、貿易をはじめとする外国とのやりとりや、長期的な視点に基づく投資のようなものは減っていきます。それは当然のこと、経済成長の停滞につながります。もともと民主主義的だった国々ほど、激しいパフォーマンスの悪化が見られる背景には、このような事情があると考えられます。

図8

「民主主義の呪い」のメカニズムを簡単にまとめたモデルが図8です。おそらく労働力の投入量や、生産性そのものは、特段大きく落ち込んだりはしていないと考えられます。その一方で、民主主義の劣化にともなって、先を見据えた投資や外国からの輸入が滞るようになったことで、生産や輸出が停滞し、経済成長がかげりを見せるようになったと考えられます。ここ20年で起こった「民主主義の呪い」のメカニズムは、おおよそこのようなものだろうと思います。

民主主義を乗り越えるさまざまな試み

こうした現状をふまえた民主主義に対する蔑視や懐疑が、今やいろいろなところで幅広く共有されつつあります。特に英語圏ではここ10年くらい、「民主主義はどうやって終わるか」「民主主義の黄昏」といったタイトルの著書がおびただしい数、それもかなり穏健で保守的な学者の手によってすら書かれるようになっていて、しかもそれらが普通にベストセラーになったりしています。

こうした「反民主主義運動」とでも呼べるような動きの典型的な人物が、ピーター・ティールです。ティールはPalantirやPayPalの創始者であり、Facebookに最初に投資した投資家でもありますが、それと同じくらい、政治活動家・運動家としてもよく知られています。彼はトランプ大統領の最大の支持者だったわけですが、トランプ支持を表明する前から、民主主義に対する軽蔑を公にしていました。民主主義とは、フロンティアを切り開き、ある種の差異をつくり出す(まさしくティールのような)強者たちの自由を、多数の「情弱」たちが抑圧し奪い去るものであり、彼のような人物にしてみれば許しがたいものだったわけです。

そのティールが支援している、「海上独立都市財団(The Seasteading Institute)」という団体があります。この団体の主目的は、簡単に言ってしまえば、どの国の主権も及んでいない公海上を延々と周遊しつづける海洋国家のようなものを新たにつくってしまおう、というものです。今ではクルーズ船のような巨大な船をつくるコストはすごく下がっているらしく、海の上を周遊しつづけるコミュニティのようなものをつくるのがコスト面でも現実的になりつつあるということが、この運動の背景としてあるようです。

「民主主義からの逃走」とでも呼べるようなこうした動きが、各地で実際に芽生え育ちつつあります。公海や地底、あるいは宇宙空間といった、未だほぼ手つかずのフロンティアに独立国家を新たにつくろう、といった極端なアイデアから、地方自治体の乗っ取りやWeb3.0をベースにしたデジタル国家建設、あるいは既存の制度をある程度前提としたゲーテッド・コミュニティの建設などのやや穏健なものまで、提案されているアイデアはさまざまです。こうした運動はしばしば成金主義的・エリート主義的な風合いを帯びていて、国家や政治制度の管轄領域だった部分をも市場の原理にさらしていこう、という志向性をもっている場合が少なくありません。そのような発想には弊害もさまざまあるように思いますが、いずれにせよ、そういうアイデアに基づく運動が隆盛しつつあるのは確かです。

こうしたやや過激な動きとは別に、選挙制度そのものを修理して選挙民主主義の質を取り戻すことはできないか、という問いかけもさまざまなかたちで起こっています。その切り口のわかりやすいものの一つが、シルバー民主主義の問題です。つまり、高齢化の進行にともなって、人口比率の多い高齢者が選挙民主主義における多数派として力をふるうようになり、若者がほぼ黙殺されているに近い状況をどう打開するか、という問題です。これが問われる背景には、ほぼ世界共通に見られる世代間対立の問題や、近視眼的で将来への配慮に乏しい政策が支持を得つづけている現状があります。

シルバー民主主義の打開策としても、さまざまなものが提案されています。一番わかりやすいのは、参政権に年齢上限のようなものを設けるアイデアです。一見すると実現困難に思われる提案ですが、実はいくつかの国ではそれに近いしくみがすでに導入されています。たとえばカナダでは、74歳以下でなくては上院議員に立候補できないという制約が設けられています。またブラジルでは、選挙権の側に縛りが設定されており、71歳以下の国民は投票を義務づけられているのに対して、71歳を超えると投票が義務ではなくて任意になります。こういったある種の年齢制限や、年齢に基づくインセンティブの傾斜配分のようなしくみは、あちこちで少しずつ提案されるようになっています。

逆に、若い人たちの声を拾い上げるためのアイデアもいろいろ提唱されています。選挙権年齢の引き下げは、そのわかりやすい一つでしょう。また、これまで投票権を持たなかった子供の投票権を、親に代理で渡せないかといったこともよく議論されています。この代理投票のアイデアは、ハンガリーの国会で審議されて真面目に導入をめぐる議論がなされるくらいには、現実味を帯びつつあります。

さらによく議論に上がるのが、余命投票という方法です。これは文字どおり、それぞれの人の票を、各人の余命に基づいて重みづけしてはどうかというアイデアです。これが適用されると、若い人の票ほど大きな重みを持つ、すなわち若者の声が政治に反映されやすいかたちに、投票制度が改変されることになるわけです。

実際のところ、もし余命投票を導入できると、そのインパクトはそれなりに大きなものになります。次の地図(図9)は、2016年のアメリカ大統領選挙において余命投票を採用していたと仮定した場合、州ごとの勝者がどうなっていたかを表したものです。

図9

青で色付けされているのは、実際の選挙ではトランプが勝っていたけれども、余命投票を採用すると勝者がヒラリーに変わる州であり、赤はその逆です。見てわかるように、ウィスコンシンやミシガン、ペンシルヴェニアといったいわゆる旧工業地帯、つまりトランプ大統領誕生の鍵になったと考えられる州も、余命で票を重みづけると、勝者がきれいにひっくり返ります。この結果を集計すると、もし余命投票をしていたら2016年にアメリカ大統領になっていたのはヒラリー・クリントンだったこともわかります。大統領選のような重要な選挙結果さえも、余命投票のようなものを導入すれば、大きくひっくり返る可能性があるのが現状と言えるわけです。

ここまでにお話ししてきた以外にも、政治家や政党単位ではなく政策やイシュー単位で投票を行う液体民主主義みたいな制度や、二次投票ないしクアドラティック・ボーティングと呼ばれるような方法、分人民主主義と呼ばれるしくみなど、さまざまな選挙制度改革やオルタナティブな選挙のしくみが提案されています。これらの方法はそれぞれに面白い性質を有していて、それらについて理論的な検討を加えたり、具体的な実装のやり方を考えたりすることは、それ自体が面白い取り組みではあります。

ただ、こういった選挙制度の修正・改革が、本当の意味で問題の解決になるかは疑わしいところもあります。単純に実現可能性が十分にあると思えないということに加えて、そもそも選挙民主主義そのものに内在する本質的な問題があるのではないかと思われるからです。もともと選挙というイベントには、ある種の多数派のお祭り、あるいは戦争のような部分があり、そのイベントに向かって人々が心身を同調させていくプロセスが、今やインターネットやSNSを介していっそうハックしやすいものになってしまっています。誰かがその気になれば、分断や両極化などを簡単に起こせてしまう環境が、かつてないレベルで整ってしまっているとも言えます。そうした本質的な問題は、選挙制度の表層をいじり回して解決できるものではなさそうに思えます。

では、こうした現状を踏まえてやるべきことはいったい何なのか。それは実は、選挙制度そのものの調整・改良といったことではないのではないか。重要なのはむしろ、民主主義の実行のかたちそのものをアップデートすることで、選挙民主主義がはらむ本質的な問題を乗り越えていくことなのではないか。そうした問題意識を踏まえて、ここからは民主主義の新たな実行のしくみについて、一つのアイデアをお話ししていきたいと思います。