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ネオコンとロシア:ウクライナ戦争のもう一つの視座

キーノートスピーカー
神保哲生(ジャーナリスト)
ディスカッション
波頭亮、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

ネオコンは1990年の湾岸戦争でアメリカ政治の表舞台に躍り出ました。そして、2001年の9・11でポール・ウルフォウィッツやらジョン・ボルトンやらリチャード・パールやらといったネオコンの論者たちが当時のブッシュ大統領を説得して、後に泥沼となるイラク侵攻へと政策を導いていきました。

ただ、そのルーツは戦前にまで遡り、ウッドロー・ウィルソン元大統領の国際協調主義に幻滅してそこから離反した勢力がそのルーツと言われていますが、その後アメリカ政治の勢力図の中では、長らく保守陣営の傍流的な立場にありました。ちなみにISWの筆頭理事にウィリアム・クリストルという人物がいます。彼もネオコンの重鎮中の重鎮ですが、このウィリアム氏の父であるアーヴィング・クリストルは、ネオコンの開祖と言って差し支えない重要人物です。二大イデオローグであるクリストル家とケーガン家の名前を押さえておけば、ネオコンの半分は理解したと言っても過言ではありません。

アメリカが冷戦終結にともなって圧倒的な軍事力を持つ世界唯一の超大国の座を手にして以降、ネオコンは「世界に対してユニラテラルに行動し、アメリカ的な理想を押し広げていくべきである」という主張を積極的に行うようになりました。アメリカは冷戦終結以前は、ソ連と対峙している状況下で、MAD(Mutual Assured Destruction:相互確証破壊。互いに相手国を完全に破壊できるだけの核戦力を持ち合うことで、相互に核攻撃を抑止しあう核戦略構想)に則って行動を抑制せざるを得なかったわけですが、ソ連が崩壊を迎えてからは、もはや遠慮する必要もないということで、ネオコンの主張がアメリカの政治体制内で幅を利かせるようになります。それが実際の権力掌握につながったきっかけが9・11だったわけです。やはり著名なネオコン論者として知られる、当時の国防副長官ポール・ウルフォウィッツは、9・11で大統領らと避難していたキャンプ・デービッドで「今こそイラク侵攻のチャンスである、中東を安定化するには民主主義を根づかせるほかはない」と、大統領や他の閣僚を前に熱弁を振るったと言われています。その後イラクやアフガニスタンで何が起こったのかは、皆さんもよくご存知のことと思います。

長きにわたった中東への介入が大失敗に終わったのち、ネオコンはいったん力を失い、オバマ政権下においては、やや息を潜めていました。その後トランプが大統領の座に就いて、アメリカの外交は既存の外交政策はほぼ無視した、かなりカオスな状態になりました。トランプ政権では閣僚が目まぐるしく変わる中で、ジョン・ボルトンという自他共に認めるネオコン論者が国家安全保障担当補佐官に就きましたが、強面で有名なボルトンでされ、トランプのことを手なずけることはまったくできなかったようです。しかし、その後ジョー・バイデンが政権を握ったところで、ネオコンは再び政治の表舞台に躍り出てきます。その代表格が、先ほども名前を挙げたパトリシア・ヌーランド国務次官です(国務次官は国務長官・副長官に次ぐ国務省のNo.3)。

さて、ここからは件のネオコンがアメリカ政治の中枢に入り込むようになったことが、ロシアおよびウクライナの方面にどのような影響をもたらしてきたかについてお話ししたいと思います。一言で言ってしまうと、アメリカの対露政策は、ネオコンがアメリカの政治に対する影響力を持っているときとそうでないときとで、かなり大きく揺らいできました。ネオコンもしくはネオコン的な思想を持つ勢力が外交・国防政策分野で影響力を持つと、アメリカの対露政策が敵対的になり、それがなくなると融和的になる、ということを繰り返してきたと言っていいと思います。ネオコンはスターリン主義的な体制への反発からアメリカに移って民主主義に鞍替えした人々であるため、ソ連を許せないのはもちろんのこと、ソ連崩壊後のロシアに対しても強い不信感を抱いていることがその背景にはあります。

たとえば、アメリカの対露政策のブレを象徴する一つの出来事が、ベルリンの壁崩壊直後にありました。1990年2月9日、当時アメリカの国務長官だったジェームズ・ベーカーが、ミハイル・ゴルバチョフ大統領とエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣との会談の中で、「NATO軍の管轄は1インチたりとも東に拡大しない(there would be no extention of NATO’s jurisdiction for forces of NATO one inch to the east)」と約束したことがわかっています。当時アメリカの政権内には、ゴルバチョフ主導のペレストロイカやグラスノスチといったソ連の民主化運動を支援してロシアを民主国家に変えていこうと主張する勢力があり、この発言もその文脈においてなされたものと言えます。

この発言は、ここで使われている「管轄(jurisdiction)」の語が何を意味するのかを含め、解釈をめぐってさまざまな議論がなされてきましたが、いずれにせよ当時のアメリカの外交サークルにおいて、一部の勢力からベーカーの「独走」は大変な批判を受けました。ノーベル賞狙いのスタンドプレーだと批判する人もいました。ただ、その根底にあったのは、ロシアをそこまで信用してはいけないという考え方でした。その批判の中心にいたのがネオコンです。ベーカーはこのネオコン勢力による巻き返しを受けたことで、この後、政権内で影響力を失っていきます。そして結局のところ、先の「NATO軍の管轄は1インチたりとも〜」という発言は、その後共同声明などにはまったく反映されることなく終わります。

その後もアメリカの対露政策は、強硬的になったり融和的になったりと両極端の間を揺れつづけました。たとえば、1997年にはG7にロシアが加わってG8になるといった出来事がありましたが、これはまさにロシアを包摂しようという動きでした。しかしその直後の1998年には、ポーランドとバルト三国がNATOに加入するという、ロシアから見ればあからさまに喧嘩を売られたような出来事が起こります。NATOをどこまで東へと拡大するかをめぐる動きは、アメリカのロシアに対するスタンスを表す指標の一つと捉えられますから、言ってみればロシアの包摂を目指す動きを見せた直後にその真逆にあたる政策をとるといったアメリカの対露政策の揺らぎが繰り返され、ロシア側の疑心暗鬼を生んでしまったという面が多分にあったと考えられます。

こうした対露政策の迷走は、ひとまず2001年の9・11まで続きました。9・11以降しばらくの間は、アメリカはいわゆるテロとの戦い一色になり、ロシアとも足並みを揃えて戦っていく状態が続くことになります。