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一般意志2.0の構想について

キーノートスピーカー
東浩紀(作家、早稲田大学文化構想学部教授)
ディスカッション
波頭亮、團紀彦、西川伸一、山崎元、上杉隆、和田秀樹

キーノートスピーチ:一般意志2.0の構想について

東 「一般意志2.0」とは、今後の政治のあり方を考え直そうという問題提起だ。「一般意志」とは、ジャン・ジャック・ルソーが1760年代に書いた『社会契約論』に出てくる言葉で、同書はフランス革命の理論的基礎となり、ルソーは近代民主主義の祖とされている。つまり「一般意志」という言葉が生まれたところから近代民主主義は始まったわけだが、その概念をインターネット時代風に読み換えるとどうなるか。これが「一般意志2.0」の構想だ。結論を先に述べると、情報技術を活用し、大衆の無意識を可視化した「一般意志」を制約条件と捉え、政治を運営すべきだと私は考える。

東浩紀氏

「一般意志」の話をする前に、まずルソーという人物について見ておこう。ルソーは世間で思われているようなアカデミシャンではない。音楽を志してパリを訪れた彼が最初に有名になったのは、自作したオペラでの成功だ。その後、恋愛小説『新エロイーズ』を出版し、これが大ヒットするなど多彩な人物であったが、一方で、あまり社交的な性格ではなかったようだ。懸賞論文への応募から論壇人の道を歩み始めるが、サロンともうまく付き合えず、政府や国とも距離をとっていた。

そんなルソーが書いた『社会契約論』には、昔から「ルソー問題」というものが内包されている。人間は社会契約をした以上、全面的に国家に従うべきだというのが『社会契約論』の要点だが、ルソー自身は非常に自由を好み、社会から距離をとりたがっているのだ。この整合性はどう考えるべきなのか。

コミュニケーションが上手ではないルソーが、社会の統治について考えた末に出した答え、それは「コミュニケーションなき政治」だ。通常政治では、合意形成のために十分な議論が尽くされる。しかしルソーは、それが必要だと考えていなかったようだ。その思想の鍵を握るのが「一般意志」だ。

「全体意思」と「一般意志」。これはルソーが考えた概念対立である。「全体意思」とは、みんなが話し合い、その意見を積み重ねていったものであり、時として間違えることもある。一方で「一般意志」は、みんなの考えの「差異の和」(つまりその場にいるみんなの平均身長みたいなもの)だから、絶対に間違えない。しかも「一般意志」は、相互にコミュニケーションをとる必要がなく、各自に十分な情報が与えられれば、突然現れるものである。これがルソーが『社会契約論』で述べている考えだ。

この「一般意志」について、これまでカント=ヘーゲル系学者は「努力目標」として位置づけてきた。相互にコミュニケーションをとることなく「一般意志」が突然現れることがイメージできなかったからだ。しかしわれわれは今、そういった情景をネット上で目撃している。GoogleやAmazonでは、コミュニケーション抜きに何らかの結果が統計情報として現れている。こういったビッグデータこそが、現代の「一般意志」だと考えることはできないだろうか。

私たちは、コミュニケーションがあってはじめて民主主義が成立すると考えがちだ。しかし、民主主義の祖ともいえるルソーが、実はコミュニケーション抜きで合意形成を考えていたことは興味深い。

最近、民主党が「熟議民主主義」という言葉を使っているが、実はその熟議は困難に直面している。世の中が複雑化し、みんなですべてのことを熟議することができないのだ。「熟議のコスト」問題である。

現状の民主主義では「熟議のコスト」が問題となっている。一方、民主主義の祖は、コミュニケーションは不要だと述べている。だとするなら、この二つを組み合わせて新しい統治形態を考えてみてはどうだろうか。

ここでもう一人、ご登場を願おう。フロイトだ。彼は全体主義の嵐が吹き荒れる中、意識と無意識の葛藤について考えた思想家だが、では無意識というものをどう捉えていたのか。後継者のジャック・ラカンが無意識を「物」と表現したことからもわかるように、否認しても仕方がない「そこにあるもの」であり、ある種の制約条件と捉えていたようだ。

実はルソーも、『エミール』という教育論で「人の秩序」「物の秩序」という対立概念を出し、「一般意思とは物の秩序である」と述べている。つまり、誰かが「こうだ」と決めたものではなく、統計情報のように、否定しても仕方がなく、すでにこの世に存在しているものなのだから、それを前提条件、あるいは制約条件と捉えようと述べているのだ。

そして私は以下のような結論に至った。国家レベルでも、民衆の無意識を「物」として可視化し、それを「一般意志」として捉え、これを制約条件として確認しながら熟議を行う統治システムがこれから求められるのではないか、と。

具体的に言えば、たとえばニコニコ動画のようなシステムを国会運営に導入するのだ。これなら、人々の反応を、書き込まれたコメントを通してリアルタイムに可視化することができる。そして、そこに見える「一般意志」を制約条件として捉え、議論をするのだ。少なくとも、数年に一度、どこかの政党に投票しなさいという現状よりは民意が政治に投影されるのではないか。

インターネットやSNSの登場で、民主主義が壊れてしまうのではないかといった意見も散見される昨今だが、「一般意志」の考えに立ち返ると、今、ネットで人々がやり始めていることは、驚くほどルソーの描いた民主主義の理想に近いというのが私の考えだ。われわれは今、もう一度民主主義のあるべき姿を問い直す時期に来ているのではないだろうか。