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21世紀の日本/社会におけるこれからのヴィジョンとあり得べき姿

キーノートスピーカー
波頭亮(評論家)、島田雅彦(小説家)、西川伸一(AASJ代表)、茂木健一郎(脳科学者)、山崎元(経済評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

「リブラこそが正義だ」と考えてみよう

山崎 私は最近、フェイスブック社が発表した仮想通貨(暗号資産)の「リブラ」の構想が気になっています。フェイスブック社の個人情報流出問題の規模と予想される影響の大きさが懸念を呼んでか、リブラは方々から叩かれています。しかし、それはむしろ、何か本質的な問題をもっているからなのかもしれません。今回、「リブラこそが正義」だという仮説を立ててみました。

一連のリブラの構想とその関連ビジネスが最大限に実現した状態を「究極のリブラ」と呼ぶことにしましょう。「究極のリブラ」が実現すると、たとえば国内はもちろん、国境を越えてローコストで送金ができるようになり、ユーザーにとっては大きなメリットがあります。既存の金融機関の送金や外国為替が顧客に要求する手間・時間・手数料を考えると、フェイスブック社が実現するか否かは別として「究極のリブラ」の方向性こそがたしかに正義でしょう。

山崎元氏

リブラは先進国通貨のバスケットにリンクした世界通貨です。スマホの内部にIMF(国際通貨基金)のSDR(特別引出権)が入っていて、これで買い物の支払いや飲み屋の割り勘、さらには貿易決済や、融資や投資までができるなら途方もなく便利であり、しかも、リブラの取り引きに伴って有用で大量の経済情報が集まります。

フェイスブックの世界での日間アクティブユーザーは一五億人で、日本の総人口の一〇倍以上です。一五億人のあいだでローコストの送金・決済が可能になれば、これまで銀行が貪ってきた送金手数料、為替手数料、ATM手数料に勝ち目はない。しかも、銀行は決済に伴う情報を失います。

銀行ビジネスは丸ごと駆逐されてしまうかもしれません。保険会社、証券会社、運用会社、証券取引所、さらには中央銀行さえも、「究極のリブラ」に取って代わられてしまうかもしれない。

「究極のリブラ」が実現すると、金融マンである人間に配分されていた利益は、システムとそのもち主にどんどん移っていきます。「究極のリブラ」に向かう過渡期に、金融マンは生き残りのために営業を先鋭化させる可能性が高く、しかも、その際にデータの収集と処理の高度化を最大限に活用するでしょう。

「究極のリブラ」に向かう過渡期にあって必要なのは、悪徳化したマーケティングを「解毒」し、消費者の側に対抗力を提供するサービスでしょう。そして、「究極のリブラ」の実現後も、その陣営が売り手と買い手双方の利益を代表するわけにはいかない以上、「マーケティングの解毒」は必要な対抗力であり、有用なサービスだと私は考えています。

AIへの対抗と、AIによる新たなコミュニティ

西川 私自身はやりたいことが二つあります。一つは、AI(人工知能)時代に逆らって、自らの頭のなかで物事をどこまで処理していけるのかを調べたい。そのなかで蓄積されてきたものを、世の中の人に使いやすいかたちで提供できればと思っています。

もう一つは、AIに逆らうのではなく、若い人をエンカレッジして、ブロックチェーンのような小さなコミュニティを多くつくること。既存の階層制とは違うコミュニティをインターネット空間で実現していけたらと考えています。

ゲノム(DNAのすべての遺伝情報)分野でいうと、アメリカには、人のゲノムを無料で解析してくれるサービスがあります。解析された生データは、自分の手元に戻ってくる。約二〇〇〇~三〇〇〇万人が自らのゲノムを検査してもらっているといいます。手元の生データをデータ運用サイトにアップロードし、遺伝情報として活用されるのです。その結果、五人に一人くらいは、自分の知らなかった親戚が新たに見つかっています。

西川伸一氏

あるサイトでは、集めたゲノムデータを警察に提供すると最初から公表し、そのうえでデータを収集しています。そのサイトのデータをもとに、ここ一年で強姦犯が一〇人以上逮捕されたといいます。現場に残されたDNAのデータを入れると、誰の親戚かがわかり、それを辿っていくと容疑者に行き着くのです。

アメリカでは、多数のゲノム運用サイトができれば、DNAが残された犯罪の容疑者をすべて特定できると考えられています。髪の毛を一本落としているだけで、容疑者を割り出せる。ゲノム運用を犯罪の抑止力に使おうというわけです。

ゲノム以外の分野でもネットコミュニティが確立し、ブロックチェーン体制になると、既存の仕組みを変える力をもっています。いまは政府が垂直的に強制する階層制が根強く残っていますが、それは今後、急速に変わっていくでしょう。

AIに逆らって自分の頭の中で考えることと、AIが生み出した階層制ではないコミュニティとでよい接点が見出せればと試行錯誤しています。

事実が捻じ曲げられるいま、描けること

島田 私は、自らの欲望と多少の体験を小説に反映させてきました。小説の主人公は殺人犯になったり、ノイローゼの人間になったり、歴史上の人物になったりしましたが、どんな人物を描いてもある程度は自分が反映されるものです。ただ、純度の高い私小説は書いたことがなかったので、九割方事実に基づいた私小説を書いて最近、上梓しました。

島田雅彦氏

いまの世の中は、政治でも報道でも、事実が隠蔽、歪曲、捏造されていると感じます。私は「自分は噓つきだ」と自己申告して小説を書いていますが、私のようなフィクションライターを差し置いて、世間では噓をつく人ばかり。自覚のない噓を並べる厚顔無恥の人たちに一矢報いようと思い、「小説は事実を書くこともできるんだ」と示そうと、あえて自分に関わる事実を包み隠さず書くことにしました。

ところで、今般は中国、韓国、インドネシアなど東アジア、東南アジアのプレゼンスが高まっており、明治維新以降、日本は最低の地位にまで下がっているのではないかと思います。

中国は三十年前の予想をはるかに超えた覇権を握りつつあり、太平洋における軍事プレゼンスを高めている。そんな中国を仮に敵国と見なす虚勢を張ったところで、歯牙にもかけられない。万が一、日中の軍事衝突があったとしても、沖縄に展開されている米海兵隊はそれに対処する余裕はないでしょう。

それでも、米軍が日本を守ってくれるという一種の信仰のもとに、莫大なお布施を払っている。この絶望的な現在から三十年後の未来に思いを馳せてみると、明るいビジョンを思い描きようがない。宗主国たるアメリカの凋落が予想以上に進んでいたとすれば、アメリカと同盟を結んでいたがために、中国やロシアとの戦争に駆り出されて敗戦を喫し、日本が分割統治される可能性がまったくないともいえない。

もちろん、悲観的な予測が当たるかどうかはわかりません。昭和が終わったとき、三十年後のいまの日本の有り様を正しく予測できた人はいない。それがわずかながらの慰めだと思っています。

自由主義と「デジタル・レーニズム」の体制間競争

茂木 僕が脳科学者として気になっていることは、中国を筆頭として、AIやビッグデータと権威主義体制が結び付いた「デジタル・レーニズム」です。AIやICT(情報通信技術)によって評価関数が定まると、それを国家が管理し始める。とりわけ中国では、人間をレーティング(格付け)して、評価が低い人は公共交通機関のチケットを買うこともできない。

フランシス・フクヤマは大著『歴史の終わり』のなかで、冷戦が終焉して自由主義経済が勝った、と書きました。しかし本当にそうなのか。

茂木健一郎氏

自由主義経済は、自発的に新しい会社が勃興し、各企業のイニシアティブで技術革新が起こって競争することで、経済が発展していくモデルでした。一方で中国が推進しているのは、正反対の政策です。すなわち、国家が計画して評価関数を定め、個人がそのなかで生きる、まさにジョージ・オーウェルの『1984』のようなシステムです。

「中国は自由主義ではなく一党独裁だから、どこかで成長が止まる」との期待を抱いていた人は少なくなかったでしょう。しかしその成長はとどまるところを知らず、中国経済が政治システムのせいで減速するシナリオはみえにくい。

一方で、自由主義陣営の旗手であるアメリカやイギリスでは、ドナルド・トランプ氏やボリス・ジョンソン氏のようなポピュリスト指導者が登場し、内部から変質しています。フクヤマがいうような「歴史の終わり」ではなく、AI技術が出てきたことにより、自由主義とデジタル・レーニズムの新しい体制間競争が起こっているのではないか、というのが僕の理解です。

人間の脳の仕組みと社会の構成からみて、個人のイニシアティブと独創性を発揮し、市場を通して競争するモデルが本当に最適解だったのか。それとも、デジタル・レーニズムのほうが社会に適しているのか。どちらが進化論的により適応的なシステムなのかがよくわからなくなってきた。それが脳科学者としての僕の見立てです。

この話を外国からの留学生が多い私立大学の学部でしたら、「それは本質的ですよね」とアクティブな反応を示してくれました。

ところが東大の講義で話すと、「僕たちはそういう大きな話は関係ないんで。いまの社会のなかで生きていければいいんだから」と関心をもたれず、本当にショックでした。

世代対立を煽りたくはないけれども、いまの日本における若い世代の劣化は、もはや国家的スキャンダルだと思います。彼らは社会で決まっている評価関数のなかで、自分を最適化できればいいと考えている。中国のようにAIに基づく評価関数によって国民を監視しなくても、日本の若者たちは自らをひたすらレーティングに適応させようとしています。

なぜこうしたジェネレーションが生まれてしまったのか、僕は恐怖感すら抱きます。

「歴史の終わり」と「文学部の逆襲」

波頭 十八世紀後半に起こった産業革命以降、人びとを豊かにし、幸せな人生を送るために機能してきた二つの方法論は、民主主義と資本主義です。十八世紀までは、石器時代と比べても栄養状態が改善されず、寿命も延びていないし、体格すら変わっていない。

一方で、民主主義と資本主義が普及した十九世紀から今日までに、寿命は倍になり、実質的な豊かさは一〇倍の水準に伸びている。民主主義と資本主義が人びとの豊かさに貢献していたわけです。

ところが現在、何が起きているか。どの国も分断が先鋭化し、格差が開いています。これは民主主義的ではないし、人びとの生活の豊かさにも寄与していない。この二十年間で、世界のGDPは倍以上伸びています。しかし日本もアメリカも、EUですら、中央値の人たちの実質的な豊かさは上がっていません。

では、倍増したGDPはどこにいったのか。半分ほどは発展途上国に配分されました。生きるか死ぬかのレベルから脱し、一人当たりGDPが三〇〇〇~一万ドルくらいに伸びました。

波頭亮氏

残りの半分は、一部の資本家によってほぼ独占されました。資本主義がまだ健全だった一九六〇~八〇年代初頭までは、共産・社会主義との緊張関係のなかで、アメリカの大資本ですら、公共の福祉や社会保障に配慮した経営をしていました。しかし共産・社会主義体制が崩壊し、資本主義がわが物顔になった途端に、資本主義が民主主義を呑み込み始めたのです。

北欧諸国以外の主要な資本主義国家では、「資本主義が民主主義を買収した」といわれます。資本主義たるツァーリ(皇帝)と、民衆という奴隷だけがそこには存在する。資本主義陣営の勝利を説いたフクヤマの主張とは逆の意味で「歴史の終わり」に近づいています。

どうしてこんなことになったのか。茂木さんがおっしゃった社会の評価関数が、経済合理性、経済的効用、即物的有用性に収斂してしまったからでしょう。その象徴が、近ごろ巷間いわれる「文学部無用論」だと思います。哲学、美学、歴史、文学などは、人間にとって本質的に大事なものは何かを考えるもの。それを無用だと見なすのは、経済合理性の一元的支配です。その平板な考えから早く脱却しないと、悲惨な「歴史の終わり」を迎えてしまいます。

暗い将来を反転させるために必要なのは、文学部的なるものの復活、すなわちルネサンスだと考えています。人びとの多様性、人間の生身性、感情性、官能性を復活させるために、「文学部の逆襲」を世の中の一つの軸にすべきではないでしょうか。