島田 ジル・ドゥルーズ(フランスの哲学者)とフェリックス・ガタリ(フランスの哲学者)が、共著作『アンチ・オイディプス』のなかで、精神分裂病(統合失調症のかつての呼び方)を、無意識が露呈していることから特異な才能の病とみなし、そこにこそ可能性がある、と宣言してからもう40 年くらいになります。
無意識が露呈しているという統合失調の経験が実はクリエイティブであり、まだ開拓されていない思考の結果なのである。そういう前提が作られたのですが、そこから先の考察は進んでないと感じています。
今の時代、創作(フィクション)の世界を目指している人の多くは、メンヘラ(メンタルヘルスの略。精神的に不安定な人)ではないかと思っています。大学院で学生たちに文学を教えていますが、彼ら彼女らの小説を読んでいると、精神分析をさせられているような感覚を覚えます。
作品の随所に、文法的におかしな箇所や⼀般には文意が通じにくい比喩が並んでいる。それらはむしろ魅力的なので伸ばしてあげたいと思いますが、大学院で教える立場からすれば「文法的に間違っているよ」「時系列がおかしい」などと指摘したくなってしまう。筋道が通っているロゴス的な思考を極力抑え、フィクションの世界を自由に構築してもらう方がはるかにクリエイティブなものができるし、私自身、そう確信して実践もしてきたつもりです。
とは言え、無意識の発露も自由に構築する方が正しいということを理論化しないといけない−—。そう考え10 年前、入門編として『小説作法ABC』という本を書いたのですが、今度はもっと深く、思考のメカニズムや発話、発語のメカニズムまで踏み込んで、小説作法の第二弾『小説作法XYZ』を構想しているところです。
根本的にモノを考えるとはどういう現象なのかなど脳科学に近い部分にも突っ込んで考えています。脳にとって⼀番ハッピーなのは、その人にとって発見という知性の飛躍が連続的に起きている状態のときでしょう。
ルーティンを律儀に踏襲するより、遥かに自由でいられるし、その営み自体がメンヘラの人にとっては治療にもなります。精神科に行って抗うつ剤をもらってくるよりも、フィクションのノウハウを獲得した方が自己陶冶になるのではないか。
フィクションのノウハウの獲得は、治療という意味ではなく、その人の能力の最大限の発揮に繋がります。ところが、現代においてはそれとは対照的なロゴス的な思考(論理的思考)が、社会生活を営む上では必要不可欠であって、それができないと能力がないと認識されるし、社交的でもないと思われてしまう。それでみんな苦労しています。
しかし、人間の脳は意識と無意識の相互作用で進んでいくから、文法的なものも学ばないといけないけれど、⼀方でロゴスに抑圧される状況から解放されることが真っ先に必要なことだと思います。そのためには、いろいろなアプローチの仕方があります。以下は僕が東京新聞に連載中の『パンとサーカス』からの抜粋です。
『パンとサーカス』より
占領時代が終わっても、永続的に対米従属が続く日本にあって、私たちは自らを隷属から解放することはできるのか? この疑問を解決するには⿊船来航以来の近代史を網羅し、また敗戦後の占領政策とそれ以後の日米関係を精査しなければならないが、もしかすると、もっと古くから日本人の意識を蝕んでいる宿痾のような心性があるのではないか?
ユングは、人間の心は三層構造になっていると考えた。自我を核とした「意識」の層、個人的な経験に由来する「個人的無意識」の層、そして心の最も奥深くにある人類や動物にも普遍的な「集合的無意識」の層である。誰もが個人的な意識や無意識を越え、遠い祖先の時代から崇め奉り、恐れおののいてきたものに思考や行動を左右されてしまう。それを魔物とか憑き物と呼ぶか、呪いとか祟りと呼ぶかは人それぞれだが、現代人であっても、神話や伝説、迷信に深く囚われているのは確かである。神話や伝説の登場人物たちは様々なトラウマを背負っており、それは子孫である我々にも受け継がれ、各時代の経験と記憶によって強化され、子孫の行動をも左右する。
日本人は歴史上、外圧に屈した経験が少なくとも五回ある。最初は「白村江の戦い」での敗戦によって、唐の滅ぼされる危機に直面したが、事実上の属国になることで窮地をしのいだ。二番目は元寇で、二度にわたる蒙古軍の襲来を辛くも台風によって退けることができたものの、支配体制瓦解の原因となった。三番目は南蛮人の渡来とキリスト教の伝来である。鉄砲伝来により、内戦状態が起こり、新たな天下人の登場を促した。四番目は明治維新で、⿊船来航により、帝国主義の影響をもろに受け、極端な⻄洋化が進んだ。五番目はアジア、太平洋戦争の敗戦で、アメリカによる占領とその後の間接統治に甘んじる結果となった。
⼀連の外圧は日本の統治システムを根本から変えるきっかけになったが、逆に外圧がなければ、何も変わらず、停滞し、腐敗する。それこそが日本の元型である。そもそも、『古事記』に国譲りの神話として記されているのは、大陸から九州に渡ってきた渡来人が先住⺠から国を譲られたという話である。畿内全域を統⼀した渡来人たちは、出雲の先住⺠と敵対関係になったが、彼らから国を譲られたという体裁で、出雲国を大和朝廷に併合したのだ。そして、国譲りの後、出雲国の人々は追い立てられ、九州や東北に安住の地を求めた。彼らはそれぞれ隼人、蝦夷と呼ばれ、大和朝廷の征伐の対象となった。日本列島を二分する渡来人と先住⺠の熾烈な生存競争は源平合戦の時代までと続いたといっていい。東⻄文化の差異も、東北と関⻄の反りが合わないのも、ここに由来する。
国譲りの神話はその後も外圧が強まるたびに想起され、現代でもアメリカによる間接統治、従属的同盟という形で反復されている。先祖代々受け継がれた⼀種の強迫観念を振り払うことなどできるのか? 統治システムの根幹に関わる意識を変えるのは難しいが、自らの手で国譲りの神話を書き換える思想を編み出し、市⺠に共有され、旧来政治への抵抗運動に発展すれば、変わり得る。(抜粋終わり)