波頭 国民から負託されて政権交代を果たした09年の民主党と野田政権の民主党とを比べると、まったく違う政党に変わってしまったと言えます。今回は、そもそも国民が期待をもって政権を負託したときの民主党と、その政策を作られた鳩山由紀夫さんに、いろいろお話をお伺いさせていただきます。
和田 個人的には民主党の政策の良さは、子ども手当のような給付政策だったと思います。国にお金がないのであれば、公共事業を通して間接的に給付するより、そのほうが絶対に効率がいい。しかも利権が絡む余地もありません。
鳩山 その通りです。直接給付ですから。
山崎 分配に対して親和的で、かつ非裁量的な分配をする、という意味では、子ども手当のような政策は一番民主党の理念に沿っていたと思います。だから嫌われた、ということも言えるのですが。
鳩山 マスメディアにも相当叩かれました。
山崎 ある新聞は、政権交代の翌日から叩き始めましたね。とにかくマニフェストを早く修正しろと。約束にこだわるべきでない、特に子ども手当だと。おそらく官僚が手を回したのでしょう。官僚にとって、子ども手当は憎くてしょうがなかったのです。自分たちに何の権限もなくて、それで自動的に配られて予算を5兆円使われるということは、それだけ自分たちが使えるお金が減るということだから。
和田 そこにマスコミが利用されたということですね。一連の生活保護バッシングも同じ構図だと思います。とにかく直接給付が悪い、みたいに言われていて。現物支給だの何だのと、直接給付を回避する方法が取り沙汰されていますが、結局、現物支給にしたら、また必ず利権が出てくる。バッシングの方法も同じです。子ども手当のときは、手当をもらって親がカラオケに行く、パチンコに行くと叩かれ、生活保護のときは、不正受給する人がいると叩かれる。生活保護のシステムそのものが悪いわけではないのに。
波頭 不正受給の金額は全体の0.3%に過ぎません。
南場 何をやるにも絶対現れる一定のコストですよ、その程度の数字は。
和田 今回の総選挙で、民主党がボロ負けをすると思います(注:2012年11月20日時点)。それを経て今後、民主党が再度、社会民主的というか、ヨーロッパ的というのか、そういう政党にもう一度生まれ変わる可能性はないのでしょうか。
鳩山 今度の選挙のマニフェストは、ある意味、社会民主的といいますか、非常にリベラル色の濃いものになっていまして、たとえば「新しい公共」などを形の上では掲げています。ただし、私が辞めた後の民主党の政策が、現実としてそういうものではなかったので、選挙を戦うときの理念としてだけそういうマニフェストを作っても、国民からは内容が伴わない3年間であったという総括を当然されると思います。現執行部は、私どもはこういうリベラルな政党ですよ、と表向きで言いながら、実は自民党とそっくりな政策を仕立てて、自公民路線を進めたいと考えているのではないでしょうか。自公がそれを望むかどうかは別として。
山崎 元々の理念がそうだったにもかかわらず結果的に自民党的になってしまったということは、民主党に、いわば経営的な失敗があったということでしょうか。
鳩山 そうだと思います。
波頭 子ども手当も八ツ場ダムもそうですが、あれだけ国民から負託された具体的な政策が、大手を振って否定されるような世の中の仕組みは、民主主義の根幹に関わる問題だと思います。ある意味、選挙をやっても意味がないということになってしまう。だから、この問題をどう立て直すかということを考えないと、日本は民主主義国家ではなくなります。
山崎 それについては、根本には官僚制度の問題があると思います。政権交代時の民主党にしても、国家戦略局を作って、予算の大筋の方向をそこで決めるはずでした。そして財務省の仕事を、いわば細部の下請けになるような仕組みを作って、予算をコントロールするというマネジメントスキームが、もともと民主党にはあったわけです。しかし国家戦略局というのは、結局作らせてもらえませんでした。局ではなく室にして、やがてうやむやにされてしまうわけですが、あれは恐らく、スケジュールを見ながら官僚が法案をコントロールした結果だと思います。
また個々の官庁についても、政務三役が政治主導するということでしたが、そもそも厚労省みたいな役所を政務三役だけでコントロールできると考えること自体が間違いです。たとえば何千人規模の大企業をM&Aしたときに、役員が3〜4人だけ行って、その会社をマネジメントできるかというと、できるはずがありません。もちろん、スタッフを連れていこうにも、守秘義務とか何とか理由をつけて、役人は抵抗するでしょう。そもそも、マネジメント的に無理だったと思います。官僚が、マネージャーとして政治家が機能できないような、フリーハンドを持てないような仕組みを作っているのです。
和田 官僚でも、若手のうちは結構いい人も大勢いるんです。
南場 給料だってそれほどたくさんもらっているわけでもないのに、頑張っている人はいますよね。
和田 それがだんだん変質していく。ある種システムの怖さというか。だから、そうした変質をさせない方法論というか、変質しないでいい仕組みはないのでしょうか。そのためにはスポンサーか何か必要なのか、わかりませんが。
山崎 官僚は、人事があまりにも非流動的だというところに問題があります。四十数年間、メンバーシップが固定された共同体の中で面倒を見合うわけですから、先輩に悪い思いはさせられないし、後輩にも世話になっているから、という発想になってしまいます。結局、個人が組織に絡め取られるようにできているのです。民間の我々だと転職がありますし、政治家も選挙に落ちてしまえば政治家でなくなりますが、官僚はずっと官僚を続ける。彼らは利害共同体として非常に強固で、それに対抗し得るパワーというのが事実上、周囲に存在しないのです。
鳩山 政治家の知能が彼らに勝っていないからでしょうね。トータルとしてどうかは別として、それぞれの部署における能力は彼らに発揮されてしまっているわけで。それを凌駕する政治の、ある意味で行政のトータルを見る能力とか、そういうものがやはり政治家に欠けているのだと思われます。
山崎 その状況で、人事権のない集団をマネジメントすることは、かなり難しいですね。
波頭 形式的なルールだけではなく、実質的な評価権と任命権を大臣が持たないと、現実的には役所も官僚も動かせないでしょう。
上杉 しかも官僚は、マスコミを有効に使います。気に食わないことがあれば、彼らはメディアを使って世論をコントロールしようとします。官僚が記者クラブにリークすれば、マスコミはそのまま流してくれますから。これが官報複合体です。
波頭 どうしたらこの状況を変えられるのでしょうか。どうやったら健全な状態に戻せるのでしょうか。
上杉 記者クラブの問題について言えば、憲政史上、鳩山さんが最初に総理としてやられた、記者会見の開放が有効だと思います。
波頭 考え方としては正しいと思います。ただ、それを進めようにも、実際問題としてほとんど進んでいないという現実があります。
南場 やはり、インターネットじゃないですか。
和田 僕もインターネットが鍵になると思います。だからだと思うのですが、マスコミはこぞってインターネットがいかにインチキであるかというキャンペーンを、ずっと展開しています。
南場 でもインターネットの波は、どれだけマスコミがキャンペーンを続けても、つぶせるものではないですよ。
伊藤 僕は元々インターネット側の人間ですが、今はニューヨーク・タイムズの役員もやっています。だから実感しているのですが、マスコミにしかできない、ネットじゃできないこともたくさんあります。民主主義の柱としてマスコミは重要で、記者たちを守る弁護士集団を抱えています。米国政府とも、常に裁判をしています。ニューヨーク・タイムスもそうですが、米国のマスコミは、国民に対する責任感を常に本気で感じています。その本気のレベルがいまの日本のマスコミには足りないような気がします。
上杉 たしかに、フリーのジャーナリストにとって一番きついのは裁判です。スラップ訴訟といって、出版社やテレビ局を訴えないで個人のフリージャーナリストだけを訴えるやり方は、海外では昔からずっと行われてきました。私も今、そうした訴訟に対抗するための裁判用の基金を作っています。ニューヨーク・タイムスで「ジャーナリズムで稼いだお金はジャーナリズムで返せ」と学んだということもありますので。
島田 イタリアでは、長らくベルルスコーニ首相が政権を取っていました。彼はメディアも押さえている大金持ちの企業家なので、金に任せて、反知性的、ポピュリズム的な政治をやっていましたが、経済がダメになり、やがて政権を放り出しました。その後は、インテリ集団がベルルスコーニ政権の後始末をしています。政治が乱れたあとに保険のようにインテリ軍団が現れて後始末をするというのは、昔のマルクス・アウレリウスの哲人政治と同じですね。イタリアでは、そうした哲人政治の理想があるから、現代でもそういうものを復活しようという気運が時々盛り上がったりしています。
日本もイタリアと政治的にいろいろ似ているところがあるのですが、仮に日本に哲人政治を求めても、これは一朝一夕にいかないでしょう。でも、既得権益も要らない、見返りのお金も要らない、というような知性的な集団が、ある種の倫理の番人的な形で出て来てくれれば、多少は日本もよくなるのかなと思います。どこの政党にも属さず、お金も要らないと言っている集団が発信した意見や改革案は、結構使えるのではないでしょうか。
西川 そうおっしゃる気持ち、よくわかります。僕は最近、『グッドイタリー・バッドイタリー』という本を読みました。その本によると、イタリアという国家としては、いろんな問題も起こっているけれど、たとえばボローニャ市などの地方自治を見ると、極めて先進的な、インテレクチュアルな哲人政治のシステムが動いていたりするのです。南の地方でもプーリアなどは、やはりそうした哲人政治で守られている。つまり政治も全員が失敗しているわけではないのです。日本でもそうした地方の哲人政治が実現されればなと思います。
ただ、イタリアと日本で違う点もあって、大阪の橋下市長もそうですが、日本の政治家は最終的に、国政の方に行こうとします。一方でイタリアの地方の政治家は、基本的に国政に行く意思はあまりないようです。彼らは終始、地方自治を堂々と誇りをもってやっているのです。そして、哲人が小さなプラットフォームできちっといろんなことができる体制があるのです。
南場 日本には、それがないのですか。
鳩山 価値観の上でも中央集権なのかもしれません。
波頭 ヨーロッパはかつて都市国家でしたから、その名残があるのでしょう。日本もその昔、幕藩体制のときまでは地方に自治と独自の文化があった。明治維新以降に中央集権化を進めて、それで変わってしまいました。だから今は、実質的な自治の権限も予算も、そして独自の文化もない。そのしくみを変えようとしているのが橋下市長の地方自治に関する主張なのでしょう。
山崎 いずれにしても、マスメディアの体質と、官僚の人事制度が、問題であることは間違いないですね。
波頭 可能性としては、マスメディアの偉い方が雷に打たれて急に意識を変えるか(笑)、政治家が官僚の人事権を握るか、どちらかしかないと思います。ただ、雷というのはそんなに狙い撃ちできないから、政治制度で官僚の人事権を握ることができるかが、鍵だと思います。
鳩山 私が総理になるとき、選挙で「局長以上には一度辞表を書いてもらう」と言っていたのですが。
山崎 あれはやるべきだったと言われていますね。
鳩山 さすがに辞表は無理だという話になり、課題として残りました。本来はそのぐらいやるべきだったと思います。
波頭 辞表ではなく、完全なポリティカルアポインティーという形にすれば良かったのではないでしょうか。
鳩山 そうですね。我々はこれをやりたいんだと、という主張に賛同していただける人だけ採用するというやり方はできたはずでした。しかし、政権交代に慣れていなかったということもあり、結局、米国の政権交代のような、大幅な人事の変更ができませんでした。