山崎 健康に影響する放射線のリスクをゼロにできないなら、「程度の問題」を考える必要があります。その際には何らかの尺度が必要ですが、わかりやすいのはお金です。「最後は金目でしょ」という政治家の発言を擁護するわけではないのですが、ある程度割り切ってお金で計算して情報提供し、ある種の経済性の問題として自己決定できるようにすることも大事ではないでしょうか。
波頭 お金に換算するかどうかはさておき、たとえば交通事故に遭う確率などとも比較して、冷静に判断させる材料を国民に提供する必要はあると思います。その上で選択権、選択肢を与えるべきです。
中西 経済学も含め、文系の先生方からのそうした発言が少ないですね。原発のコストについての議論はありますが、除染や避難についての発言はもう少しあってもいいと思います。
山崎 総じて文系の先生は、決着がつく議論の経験が少ないですから。
波頭 そういう議論ができる場も必要です。感情的にオール・オア・ナッシングの議論ばかりやっているから、話が前に進みません。できれば小学校あたりから、そうした議論ができるような教育も取り入れるべきです。
森本 在米国大使館に勤務したとき、3人の子どもをワシントンの小学校に通わせたのですが、彼らは小さい頃からケーススタディを繰り返し、議論をすることでものを考えていくという習慣を身につけていますね。日本のように、一生懸命ノートに書き写して、記憶する教育とは大きく異なります。
中西 米国でバーチャル・セーフ・ドーズという議論があり、ここで擬似的に安全のレベルについて議論された結果、100万分の1という数字が出てきました。これは、米国に住む全員が、ある影響を100年間受けたときに、死ぬ数字は1人以下であるという基準が、10のマイナス6乗ぐらいだったのです。この基準をもとに、だいたい10のマイナス4乗からマイナス8乗くらいのところまでを許されるリスクとして、1つひとつのリスクが検討されています。日本でもやはり、こうした考え方を取り入れて、たとえば「10のマイナス30乗の問題は無視しよう」とか、そうした議論をすべきではないかと思います。そして、それをみんなに認めてもらうしかないでしょう。
西川 薬の承認もそうです。副作用ゼロにはどうしてもなりません。
中西 除染問題も、年1ミリシーベルトなんて言っていたら、いつまでも帰還できません。リスクと、ベネフィットをきっちり説明して、それをみんなが議論して、納得できるかにかかっていると思います。
茂木 原発については、リスクについて冷静に議論するという姿勢は尊重するべきですが、きれい事だけでは済まない問題もあります。実際問題として原発は東京ではなく過疎地に建てられ、地元にカネが落とされています。こうした点は、知識人の理論だけでは解決できないでしょう。
團 土木工学でも同じことが言えます。建築はオープンに議論をしても大丈夫で、比較的きれい事で済みます。しかし土木の場合、たとえばあるエリアの堤防をどのぐらいの高さに設定するかを決める際には、災害時の死者の数を想定したり、補償費を考慮した上で決めるのです。こうした話はオープンにできない、きれい事では済まない話ですが、実際に国土交通省は、そういう計算をしているのです。
茂木 これは原発に限らず、沖縄の基地問題やオスプレイの配備の問題にも言えることですね。
上杉 そこが本来、メディアが担うべき役割なのだと思います。汚いことも言わなくてはいけないのが、真のジャーナリズムなのです。
森本 リスクの情報開示については、私はメディアよりむしろ、政治に責任があると考えています。私が在アフリカの大使館に勤務していたとき、現地で女性職員が白血病で亡くなったのですが、日本大使館には棺桶がありませんでした。なぜなら、現地で日本人が死ぬというようなリスクを認めていないからです。
上杉 日本では、リスクがあると認めると大変なことになりますよね。大使館が棺桶を用意しているなんてことがバレると大問題です。
森本 だから棺桶の予算も認められていません。そこで各国大使館に頼みに行ったら、どこも、大人用と子ども用が用意してありました。彼らからしてみれば、「日本人は、自分たちが絶対に死なないと思っているのか?」と奇異に思ったことでしょう。日本の政治家も今後は、責任を持って「リスクはあるのです」と言えるようにならないといけないでしょう。
西川 政治や役所が変わらないと、教育も進まないし、国民の意識も変わらないでしょうね。