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ロゴス的思考とトラウマからの解放

キーノートスピーカー
島田雅彦(小説家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、團紀彦、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

島田 ある人にとっての思い込みが、その人個人に限らず、⺠族であったり、集団としての思い込みであったりすると、それはかなり強固です。その思い込みは、キリスト教の教義や先祖の歴史的体験だったり、トラウマだったりと様々ですが、ひっくるめてユングの唱えた集合的無意識という原型とみなすと、それは呪われているということにもなります。

好むと好まざるとに関わらず、集合的無意識は呪いや祟りを引き受けてしまっており、そこからいまだに我々の精神は自由になれていないと感じます。

「なぜ日本人は古代から自発的に服従を選ぶのか」というテーマで考えると、ユングなら日本⺠族全体として精神分析をすべしと言うでしょう。では、日本人の歴史的トラウマになっていることは何か。

以前、歴史学者の磯田道史さんが、このフォーラムに来て外圧の代表5 例を挙げてくれました。白村江の戦いから始まって元寇、キリスト教の伝来、⿊船来航、太平洋戦争敗戦の5 つです。

そういう猛烈な外圧によって根本的に社会システムが変わった事件が1500 年くらいの間に5 回くらいあるのです。この外圧5 例は、日本人の発想の原型的なものを形成しているのかもしれない。そう思って古事記を読むと、まず国譲りの神話に目が止まります。

『古事記』を読み解いていくと、日本人の心性をある種、牛耳っている思い込み、呪い、祟りが脅迫反復しているように見える。そうはっきり認識すると、従来とは違う世界観や目標を立てて行動するための新しいモチベーションにもなりうるのではないか。

それは、まさに自分の行動を左右してしまうトラウマを、どう克服するかという精神分析です。個人レベルではみんな行なっているけれど、集団的、⺠族的な精神分析も必要なのかもしれません。

では、日本人の集団的トラウマの克服はいかに可能になるのか。現在、日本は対米従属が自明の理となっています。この前提でみんな振り回されていて、例えば官僚になって出世しようと思ったら、今もこの原則から外れることはあり得ない。対米従属は10 年以上前と比べ、今はもっとトラウマに牛耳られているように感じます。

こういうトラウマを現代において克服できるとしたら、どういう方法がありうるのか。それを現在、東京新聞で連載中の小説『パンとサーカス』で追求していますが、答えはまだ出ていません。以下は、現在執筆中の 『小説作法XYZ』からの抜粋です。

『小説作法XYZ』より

里山は多様な細部で埋め尽くされており、本のように読むことができる。キノコや草花の⼀本には見えない糸が伸びていて、それは私の記憶とリンクしていて、自ずと散歩は回想や内省の時間となる。鈍っていた脚力が復活するとともに、錆びついていた喜怒哀楽も動き出したので、癖になり、巣篭もりのあいだ、週に三度散歩に出る習慣が身につき、コースも五種類に増えた。

古典文学ではまだ人と自然の距離が近かった。森や山、川などを人と見做し、鳥や草木が人に語りかけてくるという感覚を古代人は持っていた。それは単なる擬人化にとどまらない自然観の現れである。花鳥風月を愛でることはすなわち自然との対話であり、自然観察と自己認識は表裏⼀体だった。自然科学者と詩人の分業も曖昧で、繊細な自然観察者は植物や虫に共感したり、森に欺かれたり、動物に救われたりもすることもできた。最高の人智とは自然の複雑さの中に神を見ることだった。

近代人が踏襲してきた「思考するのは人間だけ」という思い込みは、生物学者や人類学者によって改められている。もし、人間が意思や意識を持っているのなら、植物、昆虫、動物も持っていると考えたほうがよさそうだ。少なくとも、蚊や蜂は明らかな攻撃意図を持って、こちらに向かってくるし、ナナフシやカマキリはこちらの目を眩まそうと、擬態を取ったり、死んだふりをしたりする。森でしきりにさえずっている鳥も文字通りのチャットをしている。被害妄想が高じた人が「鳥がオレを誹謗中傷している」と思い込むのはあながち間違いではない。梅の木にしても、昆虫に受粉を手伝わせるために、実がならない花をたくさん咲かせて、虫の目を欺くのである。少なくとも、動植物は自他の区別がついているし、自己認識をともなった思考をしているし、私たちがよく頭がいいと褒める鴉や熊は、言語を操っている。そういう前提で、散歩をしていると、小学生の頃によく歌った歌の⼀節が口をついて出てくる。

「ぼくらはみんな生きている。ミミズだってオケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ。友達なんだ。」 やなせたかしの歌詞ではトンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、イナゴ、カゲロウらも友達に数えられているが、いずれも郊外の散歩道では馴染みの生き物ばかりだ。友達と見なすからには、意思の疎通、魂の交流があったはず。やなせたかしも虫の声に耳を傾け、⼀緒に歌ったり、笑ったりしたのだろう。近頃、友達にはろくなニュアンスが伴わない。利害が⼀致した者同士の野合をイメージする。類は友を呼ぶともいうが、友達になる動機が問題だ。昔は目標や理想を共有するものを同志と呼んだが、今では相互利益にならない相手とは友達になれないようだ。そう考えると、自分に友達が少ない理由も納得できる。

生産業が停滞し、開発が鈍化し、人口が減少傾向にあるせいか、郊外の住宅街の生態系は少しずつ自然に還りつつある。同じように、生産活動の前線から退いた人間も自然に回帰する。国破れて山河ありというが、退職者に野山ありである。利害関係の埒外に置かれると、人はにわかにミミズやトンボと友達になるのである。都市だって生産活動が終われば、すぐに廃墟になり、三十年後には完全に森林に戻る。

書斎にいる時は外界と交信したり、書評を書いたり、主人公にテロを実行させたり、密航させたりしている。いわば、世界認識のために頭を使っている。だが、散歩中は創作のことを忘れ、草木や昆虫、野鳥と親睦を深めながら、自由に連想を広げている。星や山、川、岩に物語を与えた古代人に倣い、あらゆるものにストーリーを読み込んでみる。公園のベンチに放置された割れた眼鏡、地下鉄の出口の捨てられた折れた傘、コーヒーの飲み残しと口紅の跡、地下道の水たまり、抜けた睫毛、他人の思い出し笑い……それらを目にした途端、自動的に連想機能が作動する。それらと似ているものに置き換えたり、別の何かと重ね合わせたり、全く違うものを対置したりしながら、イメージを自由に展開し、飛躍させる。同時にそれらの意味を探り、分類し、定義しようとする論理機能も働くが、奔放な連想をつないでゆく快楽の方が勝る。意識は言語の文法や統辞法、論理とともに立ち上がるが、 心の活動の中で意識が占める割合はごくわずかだ。心はもっと複雑かつ多様な活動体であって、意識の向こうに広大無辺な無意識の領域が広がっている。

人の心は二つあるといわれる。心の内なる天使と悪魔のことではない。第⼀の心で論理を組み立て、秩序、善悪、真偽を決める。第二の心では妄想を膨らませ、夢を見、欲望や祈り、愛や思いやり、豊かな喜怒哀楽を産み出す。二つの心は複雑に連動し、互いの関係は意識と無意識、コスモスとカオス、現実と夢にそれぞれ対応する。第⼀の心は世界認識のための因果律や時間概念、社会を動かすシステムやアルゴリズムを作り出すが、第二の心は常に形を変え、不規則な組み合わせを行いながら、ランダムに変化してゆく。

産業社会への転換によって生産様式、生活様式が⼀変した時、効率や成果を合理的に追求する思考が重視されるようになった。矛盾や破綻を嫌う第⼀の心は案外脆弱で、必ず何らかの支障をきたす。その支障のことをディレンマとか、パラドックスなどと呼んできた。第二の心は第⼀の心の脆弱さを補い、ディレンマを楽しみ、パラドックスを弄ぶ余裕を持っている。危機の時代には今までと違う思考が必要とされるが、その鍵を握るのが、第二の心であり、夢見る能力である。偉大な科学的発見も、芸術の成果も第二の心の奥底から立ち上がった妄想から生まれたのである。(抜粋終わり)

島田 今年亡くなった作家、古井由吉の小説の書評を書いたとき、この小説は古代文学あるいは中世文学にあった感覚だと感じました。石牟礼道子などの作品も同じですが。

その感覚とは、先ほど言いましたが、時系列に従った構成ではなく、絵巻物と似たものです。⻄洋感覚では同⼀空間に同⼀人格がいてはいけないというお約束があるけれど、絵巻は同時に居るわけです。

現在・過去・未来の時系列を無視して、同時に現在にも過去にも未来にも居られる。そういう自由な時空認識が、古典文学では常識となっています。かつては自明であって共有されていたのです。

それを古井由吉や石牟礼道子は現代においてもやっている。明治維新で古典文学の常識は否定されてしまった。しかし、我々の先祖はそれをやっているから、その気になればいつでも戻れるという強みはあると思っています。

この自由な時空認識についていうと、僕の頭の中では映画監督のクリストファー・ノーランが作っているタイムサスペンスドラマとシンクロしていて、ここを今突っ込んで考えています。

茂木さんが翻訳しているペンローズの量子脳理論の本も多元宇宙論と繋がっていく思考のことで非常に面白い。AI の能力が高いのは自明ですが、その高さとは現時点ではあくまでロゴス的な部分での話です。

ロゴスの運用能力は圧倒的にAI が高いに決まっています。しかし、AI は未開拓の人間の脳の領域(無意識)にはまだまだ到達してはいません。もともとポテンシャルのある無意識の領域の開拓は、現状アーティストが積極的ですが、AI はまだまだ当分は太刀打ちできない。

人がAI の能力に勝るとしたら、やはり無意識の開拓にしかその可能性はないのかもしれません。