波頭 本日は哲学者でイスラーム法研究者の中田考先生にいらしていただきました。
昨今社会を豊かにするための方法論としての資本主義に批判が高まっていることをはじめ、私たちが普段から当たり前のように社会の大前提として捉えているしくみや価値観の普遍性に疑問が呈されるようになってきています。中田先生はかねてより民主主義の妥当性や正義・善悪といった概念の普遍性にまで疑問を呈して新しい文明論を展開されておられます。私たちにとってオルターナティブな世界とも言えるイスラーム世界の豊富な知識とご経験を踏まえて、本日はこれから起きるであろう「帝国の復興と文明の再編」およびその流れの中での「日本の敗戦処理」についてお話をいただきます。
中田 私はこれまでイスラーム学者として、かつてニーチェが予言した「ニヒリズムの2世紀(20〜21世紀)を生きる」という問題意識の中で、自分の立ち位置を考えて生きてきました。そして21世紀になってからは、イスラーム世界に対してはカリフ制、平たくいえばイスラームにおける世界統一運動の実践者として発言を行ってきました。また他方で日本に対してはノイズを交えない唯一神信仰を伝えることを、自分の学問的使命と考えてきました。
しかしグローバリゼーションが進行するなかで、両者の切り分けがそうきれいにもいかなくなりつつあります。今や翻訳ツールの発達などによって、日本語で行なった発信がそのまま世界中に届いてしまうことが、とりわけTwitterなどでは当たり前になってきています。大言語に限らずマイナーな言語、たとえばパシュトゥー語やクルド語といった少数言語まで相互翻訳が可能になっていて、あらゆる発信が即、世界中に拡散していく状況になってきています。そのような時代の変化の中で、私としても自身の振る舞いについて再考する必要を感じつつあるわけではありますが、さしあたり本日のスタンスとしては、日本に焦点を当てつつ、イスラーム的な世界観に立脚してお話しすることとしていきたいと思っています。
ところで、冒頭のご紹介で「民主主義への批判」という私のスタンスについて言及していただきましたが、もともとその土台にあるのは、先にも申しましたニヒリズムです。要するに、基本的な価値観を「疑う」ということですね。最近の若い方は、大学のことも高校の延長のように考えて、既存のものを「教わる」のが大学という場だと見る向きが強いようですが、私たちの若い頃は、学問とは即「疑う」ことだという共通認識がありました。そういう背景もあって、イスラーム教徒になる以前から、「いったいどうしてみんなこうも素朴に、自由とか民主主義とかといったものを信じていられるんだろう?」と不思議に思っていたところはありました。
私は歴史学者ではなく哲学者ですので、「民主的」「自由」といった言葉も、歴史的な用法ではなく、その概念自体の哲学的意味から考えていきます。しかし現実に現在使われているような意味での「民主的」や「自由」の語は、時代と地域を超えて通用するような厳密な概念規定がなされていたわけではなく、西欧というローカルな場の近代という特殊な時代状況の中で、「民主的」「自由」とみなされていたものがあるにすぎないことがわかります。その時代の人たちが、自分たちが民主的だと思ったものを「民主的」と称している。あるいはその時代の人たちが、自分たちが「いま、我々は自由だ」と感じた状態を「自由」と称しているだけです。西欧でも当初は、女性や奴隷には自由も選挙権もありませんが、当時の特権階級が、自分たちが「民主的」で「自由」だと信じて疑いませんでした。「民主的」も「自由」も、その中身は時代によって変わってくるわけです。あたかも絶対的・普遍的な自由というものがあるかのように語って、「我々は自由だが、他の人たちは自由ではない」という言い方をするのはお門違いというものです。
結局のところ、「人権」といっても、西欧の白人の支配階級の一握りのエリートがご都合主義で決めたルールに過ぎません。それをあたかも人類すべてが合意したような体裁にして、勝手に「世界人権宣言」のような仰々しい名前をつけたがるのも、心の底に不安や疑いがあるための脅迫神経症的なものだと私には思えます。特にアメリカなどは、「自由の国」を自称する一方でロシアや中国のあり方を自由がない、と全面否定してはばからないわけですが、アメリカが本当に自由で民主的かというと、そんなことはまったくありません。