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日本構想フォーラム 60回の総括

キーノートスピーカー
波頭亮(経済評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

「日本構想フォーラム60回の総括と現在の日本の姿」:停滞しつづけてきた経済成長

波頭:皆さんお忙しいなか、第61回日本構想フォーラムにお集まりいただきありがとうございます。この第61回でひとまず、キーノートスピーカーによるスピーチ披露ののちメンバーでのディスカッションを行うという、現行のスタイルでのフォーラム開催は最後となります。今回はこれまでの総括ということで、幹事である波頭がスピーチを担当させていただきます。この日本構想フォーラムの活動期間、そしてそれに先立つ助走期間を合わせた約20年間に、日本でどういうことが起こってきたのか、そして今、日本はどのような姿になっているのか、様々なデータをご紹介しながら、振り返ってみたいと思います。

この間の日本の歩みはどのようなものだったか。端的に言ってしまうと、「衰退の一途」の一言に尽きます。遺憾ながら、メッセージとして目新しいものはもはやないと言ってしまっていいでしょう。国も国民も本当に残念な状態です。

1990年代半ば以降の失われた30年間、いわゆる主要国の中で日本だけが成長できていません。1995〜2020年の名目GDP平均成長率を見てみますと、主要国の中で日本だけが見事に停滞しており、成長率-0.39%と、唯一マイナス成長の体たらくです。調子のいいアメリカが4.1%、成熟が近いイギリスやフランスですら2%台、ドイツも1.6%、どんどんキャッチアップしてきた韓国は4.3%と、いずれも多かれ少なかれ成長を遂げています。経済協力開発機構(OECD)の平均で見ても、3.3%と成長率はプラスになっています。言わずもがな、中国にもすっかり追い抜かれています。そのようななか、マイナス成長なのは日本だけ。資本主義国としては明らかに異常事態です。ちなみにこの傾向は、国家全体の名目GDPで見ても、一人当たりGDPで見てみても、同じように確かめられます。

国民の平均所得を見ても、やはり日本だけが主要国の中でマイナス成長となっています。ドイツ(1.5%)、フランス(1.5%)、アメリカ(3.3%)、イギリス(2.3%)ではいずれも1.5%以上の成長が見られるのに対し、日本だけが-0.26%とマイナスの値を示しています。この数値は1995〜2020年の平均ですから、この期間の成長量の差を累積で捉えたらとんでもない開きになります。そして当然のことながら、所得が上昇していないということは、賃金もやはり上がっていません。厳密には+0.04%でマイナスではないですが、ほぼゼロ成長と言ってしまっていいでしょう。

以上の傾向は、計算しやすくかつわかりやすい名目GDPをもとに捉えたものではありますが、実質GDP成長率を用いて比較しても、やはり同じメッセージです。「日本はデフレだったから、名目GDPで見てしまうと不調に見えるだけなんだ」「実際のところは他国と比べても十分豊かなんだ」といった主張は、成り立ちません。やはり「日本の経済成長は圧倒的に停滞している」という前提から話を進めることは必須に思われます。

さて、ここまでの話、つまり主要国間で比較した時に日本が圧倒的に成長できていないという事実については、皆さんある程度すでにご承知ではないかと思います。しかしそれ以上に衝撃的なことに、全世界約190ヶ国の中で見ても、日本の経済成長率は圧倒的な下位を推移しつづけていることです。具体的には、1995〜2020年の約25年の間、日本は国連加盟国193ヶ国中だいたい170位前後です。この順位と同等の他の国はどのあたりかというと、ソマリアやスーダン、リビア、シリアといった、この期間の大半にわたって内戦をやっていた国々ばかりが名を連ねています。内戦をしていたわけでもないのにこんなにも成長が見られないというのは、やはり驚くべき事態と言わざるを得ません。ちなみに、この25年間で日本が最も成長していた年のランキングもせいぜい100位に満たないくらいですから、つくづく成長に見放されていると言うべきでしょう。

波頭亮氏

著しい国力の低下

ここまでは国家単位のマクロの経済指標の比較をもとにお話ししてきましたが、ミクロの経済主体に着目しても、やはり日本の凋落ぶりははっきりと見て取れます。

まず、トータルな国力を比較した番付である国際競争力ランキングを見てみましょう。ここでいう「国際競争力」とは、経済指標のみならず政府の効率性やビジネスの効率性、生活インフラの充実度などを総合して国際経営開発研究所(IMD)が算出している指標で、GDP に次ぐレベルで世界的に参照されているものになります。このランキングにおいて日本は、1995年には世界4位だったのが、2020年には34位まで落ち込んでいます。個別の項目で見ると、調査対象となっている63ヶ国のランキングの中で50位以下のものが大半ですし、最下位のものも少なくありません。ビジネスの効率性に関しては、半数以上の項目が最下位です。こんな状態でいまだにOECDに入れてもらっていること自体が、もはや不思議に思えてきます。

ビジネス面での凋落ぶりは、企業の世界的なプレゼンスの推移にも如実に現れています。1989年の各国企業の世界時価総額ランキングを見てみると、上位50社のうち31社が日本企業を占めるという大変な勢いでした。それが、ほぼ30年経った2020年代現在では、トヨタがかろうじて1社残っているだけで、それ以外は全部ランキングから消え去っています。日本でかつて時価総額の大きかった会社というと、その多くが銀行だったわけですが、それらの銀行はことごとく2020年のランキングからは姿を消しています。それは別に、世界的に金融業が没落して、エネルギー産業やIT産業に取って代わられたからという理由で説明しきれる話ではありません。中国やアメリカの銀行は、依然として上位を占めているわけですから。要するに、日本企業が総じて零落したという話なんですね。

西川:少し話が逸れますが、製薬企業も上位を占めるようになっているのが目に留まりました。

波頭:この10年間、成長産業というとITばかりが挙げられますが、医療・医学分野のイノベーションは凄まじいですよね。治らなかった病気もどんどん治るようになっていて、10年か20年もすればもう不治の病はなくなるんじゃないか、くらい明るい話すら出てきています。ただ、日本はこの分野でもやはり弱いですよね。

島田:あと、貴州茅台酒が14位にいるのも……(笑)

波頭:本当だ(笑)まさに高度経済成長の典型ですよね。日本のビール会社もかつてはすごい勢いでした。

さて、今度は大学に目を向けてみますが、こちらも残念なことに精彩を欠いています。1980年代には、アジアの中で研究力にすぐれた大学といえば日本の大学の名前ばかりが挙がるような状況だったのが、2004年には東大が12位、京大が29位を占める程度になっていました。しかし2022年になると、東大が35位、京大も64位と、日本の大学はいっそう存在感を落としています。また、重要論文数の推移で見ても、ジリジリと衰退している様子が見て取れ、今や後発の韓国にほぼ追いつかれている状況です。他方、目まぐるしい成長を見せているのは中国です。日本の多くの人たちはまだまだ中国に対して「安かろう悪かろう」のイメージを持っているようですが、ITなどの分野ではすでにアメリカを追い抜く勢いであるなど、中国の成長には凄まじいものがあります。

ちなみに、特許料収入に関しては、まだイギリスやフランス、韓国といった国々を上回っていますが、これは10年・20年前の遺産から得られているもので、上位を占めているからといって成長の指標とは見なせないと考えるべきでしょう。実際のところ、特許料収入額は2020年以降ドイツに追い抜かれています

国力低下を生んできた2つの要因

以上見てきたように、ほぼ全方位で敗退している日本ですが、この間いったい何をしてきたんでしょうか。ここで、すごく特徴的だと思われる教育と財政について、簡単なファクトを挙げておきます。

まず、国民経済において中長期的観点から最もROI(投資利益率)の高い投資は何かと言うと、教育です。各分野への政府の投資と、その後のGDPの伸びの関連を分析したいくつかのリサーチでも、教育への投資がその後の経済成長に最も寄与することが明らかにされています。にもかかわらず、教育にリソースを割いてこなかったことは、日本の国力低下の重大な原因になっていると考えるべきでしょう。

具体的な数値として、2020年のGDPに占める公的教育費の割合を見てみます。OECD平均が5.3%で、アメリカ(6.1%)、イギリス(5.5%)、フランス(5.5%)はいずれも5.3%以上となっています。韓国(4.7%)やドイツ(4.7%)も5%前後です。そんななか日本はどうかというと、3.4%でOECD中最下位です。

また、政府支出に占める公的教育費の割合も、やはり日本は圧倒的に低いです。財政規模の大きいフランスが、対GDPで見たときよりも少し低めの数値になっていますが(9.2%)、それでも9%以上はありますし、あとの国はたいがい10%を超えています。それに対して日本はと言うと、7.3%とやはり断然低い水準です。

ちなみに、政府支出中の公的教育費の割合では、韓国は13.8%とトップクラスの数値になっていますが、実は韓国は私的セクター、つまり学習塾に通わせたり参考書を子供に買い与えたりといった、プライベートでの教育への支出も非常に盛んです。これを合わせると、教育への投資は韓国がダントツでトップです。1997年には財政危機でIMFの介入が入ったほど不調であった韓国が、およそ20年でここまでの成長を遂げたのは、やはり教育への積極的な投資の賜物と考えるべきでしょう。

実は日本も、私的セクターの教育支出はそれなりの規模で行われています。しかしながら、国による投資が小さいために、プライベートな教育にお金を割くゆとりのない中間層以下の人たちがどんどん取り残されていく階層の固定化を作り出す原因になっています。

このように、教育を蔑ろにしてきたことが、日本の国力低下の大きな要因の一つと考えられますが、それともう一つ挙げられるのが財政構造、とりわけ税制構造の変革です。この20年間に日本が行ってきた最大の財政政策を一言で言うと、法人税の軽減と消費税の増税です。

具体的にどのような数字の移り変わりがあったのか、もう少し詳しく見てみます。いわゆる企業の利益に対してかかる純粋な法人税は、かつて37.5%だった税率が、今や23.2%まで下げられています。これに対して消費税は、1989年に税率3%で導入されて、今は税率10%と過去の3倍を超えています。この推移によって税収がそれぞれどのように変わってきたか、金額ベースで見てみると、1995年には法人税収の約半分だった消費税収が、2020年には完全に逆転して、消費税収が法人税収の2倍にまで増加しています。つまり、それまで企業が払っていた税金を庶民が払うようになるという、見事な転換が起こったわけです。ちなみにこの間、社会保険料も3割アップしています。先ほど見たように国民の平均所得はどんどん低下していますから、ただでさえ少ない給料からより多くを搾り取られるかたちで、個人の生活はますます逼迫させられています。

それではこの状況下で、法人もやはり苦しんできたのか。実は法人のほうは、この20年間でなんと10回以上も、最高収益を更新しつづけています。日本企業は、世界における存在感を失ってこそいるものの、儲けそのものはすごく出しているんですね。

問題は、この儲けがどこに使われているのかという点です。企業は増加しつづける利益を賃金や投資に向けるのではなく、主に株主への配当に振り向けているんですね。今や配当の総額は、消費税収の総額の1.2倍もの規模になっています。しかも、日本の上場企業のオーナーシップは、今や大部分が外国人株主によって握られています。かつて10%程度だった外国人持株比率が、現在では30%近くまで上昇しているんですね。かつ、外国人株主の多くは有配当企業に集中していますから、配当の多くは外国へと流れ出す形で支払われていることになります。要するに、労働者の賃金を抑えて上げた利益の大部分を、企業は再分配や国内への投資に用いることなく、外国の株主に上納しつづけているわけです。これはもはや、植民地経済そのものだと言ってもまったく過言ではないでしょう。

教育への投資をおろそかにし、労働者の賃金を圧縮し、国民への課税を強化して、浮いた分を外国に上納するというのが現在の日本の経済構造です。日本の国力低下は、このような構造の下で進んできたわけです

「貧しいけど幸せ」なんてこともない

さて、先ほどご紹介した国際競争力ランキングと並んで最近注目を浴びている国際比較の指標に「世界幸福度ランキング」というものがあります。これは「一人当たりの国内総生産」「社会的支援」「健康寿命」「人生選択の自由」「他者への寛容さ」「汚職や政治の腐敗」という6つの指標をベースに算出されるインデックスです。

このランキングの2015年から2022年までの推移を見た時、まず目が向くのが北欧4ヶ国(フィンランド、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)です。ほとんどの年の1位は北欧4ヵ国のどこかが占めていますし、いずれの国も毎年上位10位以内に入っています。それから、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスといったいわゆる先進諸国は、大体10位から20位くらい、悪くても30位前後を推移しています。これはこれで安定していると言えるでしょう。

それでは日本はどうかというと、最も良かった時で46位(2015年)、悪い時には62位(2020年)と、完全に欧米諸国に突き放されています。経済指標や総合的な国力のみならず、幸福度の面でも、日本は欧米とは水が空いて、同じクラスターにいるとは到底言えない状況です。私たちの多くは我が国について、「先進国」という括りの中の、欧米の先進国と比肩する一国家としての自己認識を持っていたのではないかと思いますが、ジャパン・アズ・ナンバーワンだった10年足らずの「例外的な」時期を除けば、その認識は見当外れだったと言わざるを得ません。

ところで、この幸福度という指標は、必ずしも少子高齢化の度合いや、税金や社会保険料の負担率と直結しているわけではありません。日本の少子高齢化はかなり深刻ですが、ここ数年間幸福度ランキングでナンバーワンを占めつづけているフィンランドをはじめ、ヨーロッパ諸国でも少子高齢化は見られます。少子高齢化の度合いが高い=幸福度が低い、という定式は成り立たないわけですね。税金や社会保険料についても同じことが言えます。北欧諸国の国民負担率(税金+社会保険料)は軒並み6割前後と高水準ですが、先に見たように幸福度ではどこも世界のトップランカーです。税金や社会保険料が高い=幸福度が低い、というわけでもないんですね。

では、国民の幸福度の高さを規定するものとはいったい何なのか。パッと挙げるとすれば、充実した公的サービスとセーフティネットが重要なのではないかというのが私の仮説です。つまり、生きていくうえでの心配のない暮らしがインフラとして保障されていて、成長に向けた努力やチャレンジを能動的に行うチャンスが仕組みとして現実に備わっていることが大切だと考えます。北欧諸国はもちろん、フランスやドイツでも医療や教育は誰でもほぼ無料で受けられますし、生活保護や失業給付も日本に比べて圧倒的に充実しています。やはりこの点で日本はまだまだ遅れているということが一つ言えます。

そしてもう一つ、見落とされがちではあるものの大切なポイントがあります。

「知らされてこなかった」日本人

考えてみれば、別に日本の国民だって、こんな停滞した経済や、教育やR&Dに公的な投資が振り向けられない状況や、幸福度の低い暮らしを、自ら望んで続けたいと思ってきたわけではないはずです。むしろ現実をきちんと認識していれば、多かれ少なかれ危機感を持つ人が現れて、現状を打破する方向に動いたんじゃないかと私は思います。しかし、実際にはそうはならなかった。この背景としては、日本の報道にまつわる事情が大きく関係していると私は考えます。

「世界報道自由度ランキング」という番付があります。これを見ると(2022年度)、幸福度ランキングの上位にある北欧の国々が軒並みトップを占め(ノルウェー1位、デンマーク2位、スウェーデン3位、フィンランド5位)、ドイツ(16位)、イギリス(24位)、フランス(26位)とヨーロッパの先進国も比較的上位を占めています。これに対して日本は71位と、トップ50にもランクインしていません。大資本が報道に対しても幅を利かせているアメリカさえ42位、大統領が退任するたびに刑務所行きになっている韓国ですら43位であるのに対して、日本は71位というほど、報道の自由が低いのです。要するに、日本の国民は、この間の自国の状況について、まともに知らされることなくここまで来てしまったと考えられるでしょう。

すでに挙げてきた日本の沈滞した状況を、定性的な話としてうっすら把握している人は、たしかに少なからずいるかもしれません。ただ、実際の数値がどうで、個別のアジェンダについて何が起きていて、ということを定量的なデータとともに認識している人は、少ないんじゃないかと思います。かつて一度だけ、Twitterで私のツイートがバズって、5〜6万ほど「いいね!」がついたことがあるんですが、その内容は要するに今日お伝えしてきたような「日本はこれだけ成長していないんだ」「世界の中で今やこんな位置づけなんだ」といった話です。本来ならば新聞やニュースによって知らされるべき情報が、それだけ隠匿されつづけてきた。それが日本の報道の現状なんだと思います。

ご記憶の方もいらっしゃるでしょうが、つるべ落としのごとく経済状況が悪化した安倍政権下でも、日本の新聞とTVニュースは「未曾有の好景気」というフレーズをひたすら繰り返していました。各国のGDPの推移にしても、国際競争力ランキングにしても、ちょっと調べれば誰でもアクセスできるデータです。それを素知らぬふりで報道の外に追いやって、「経済に強い安倍政権」なんてキャッチフレーズを謳いながら、どんどん貧しくなる国民に対して好景気を喧伝しつづけたわけです。これは日本の政治にとってすごく大きな問題だと思います。

こうした状況が生み出した結果なのか、あるいは逆にこの状況こそが結果なのかはわかりませんが、日本の議会選挙の投票率は、他の民主主義国と比べても圧倒的に低いです。国政選挙ですら6割を切っています。対して幸福度の高い国々は、軒並み8〜9割近い投票率で推移しています。おそらく幸福度を決定づける要因として、公的サービスやセーフティネットとは別に、主権者としての責任と自己効力感、そしてそれらと紐づいたフェアな行動が挙げられるのではないかと思います。日本人はそうした意識と行動が決定的に欠けてしまっている。つまり、自国の政治や経済を決定しているのは自分自身だという自覚と、そこからくる責任意識みたいなものが、明らかに足りていないと思うんですね。それは言ってしまえば、民主主義社会が成立するための重要なインフラが抜け落ちてしまっていることに他なりません。

これまでの歩みを振り返って

これまでお話ししてきたことも踏まえつつ、そろそろ総括に入っていきたいと思います。

まさにちょうど2年くらい前、2021年2月22日の第53回日本構想フォーラムで、私は「転換期を迎えた4つの方法論:揺り戻しかアウフヘーベンか」と題してお話をさせていただきました。そこでお話ししたのは、資本主義と民主主義が無効化しつつある状況をどうするか、ということでした。つまり、この2つの方法論は20世紀以降、100年以上にわたって世界を豊かにしてきたわけですが、それは今や機能不全に陥って、民衆の豊かさを作り出すものではなくなっているという指摘です。強欲な大資本はとどまることなく暴走を続け、情報環境はますます歪められ、民主主義はその土台を崩されて崩落しつつあります。インターネットの普及によってそれまで明らかにされてこなかった情報が公になり、フェアでニュートラルな意思決定が推し進められる、なんて喜ばしい世界にはまったくならなかったわけです。それどころか、フェイクニュースの跋扈やエコーチェンバーに後押しされる分断が進むばかりで、まともな民意の形成からますます遠ざかっています。

釈迦に説法かもしれませんが、ここでいったん資本主義の歩みを振り返らせてください。18世紀後半に産業革命が起こってすぐ、むき出しの資本主義が猛威を奮い、子どもや老人が過酷な労働環境でバタバタと倒れて亡くなっていく状況が発生しました。これは修正しなければならぬ、という要請が2つのモチベーションから起こってきます。1つは資本主義的な合理性です。つまり、労働力の再生産をきちんと効率よくやらないと生産性が上がっていかないから、という話ですね。もう1つは、いわば道徳的な動機です。つまり、隣人が飢えたり疲弊したりして次々亡くなっていく状況は、人間としてさすがに見ていられない、というわけです。

そんななかで出てきたのが、ジョン・スチュアート・ミルとカール・マルクスでした。自由放任政策によって豊かさを得てきたイギリスが徐々に行き詰まりを見せつつあった状況に対し、ミルは政府による再分配をベースとする処方箋を提示し、これが19世紀の前半に「資本主義の修正」というかたちで世界的に広まりました。他方のマルクスは、もっと激烈に資本主義を批判し、その鋭い批判は皆さんもご存じのマルクス主義へと結実していきます。おおむね20世紀の前半は、このマルクス主義ないし共産主義に対する警戒と、ミル的な資本主義の修正、この2つが大きな柱になっていた時代だったと言えます。資本主義の修正は功を奏して、この時期世界は着々と成長を遂げていきました。

これが転調したのが第二次世界大戦後でした。戦前の大恐慌期を乗り切るうえでアメリカなどで処方箋として重宝されたケインズ主義が、第二次大戦後には世界中の西側各国で採用されました。というのも、戦火によってすっかり塵芥に帰してしまったアメリカ以外の各国が、効率的に復活を遂げていくにあたっては、やはり公共セクターの役割が非常に大きかったからです。そして他方、共産主義・社会主義がソ連や東欧諸国、中国などにおいて台頭を見せていたのは皆さんご存知の通りです。西側諸国は、資本主義による人民の収奪の行きすぎが共産主義化・社会主義化へのモーメントとして働くことを危惧して、再分配や公的セクターに一定の重きを置きながら進んでいきました。

ちなみにこの頃、日本は「唯一成功した社会主義」と言われるほど、世界に類を見ない中産階級国家でした。それがなぜ成立していたかというと、1つには明治維新以後の四民平等政策によって、ヨーロッパほど貴族制を基盤にした階級社会が根強く残存していなかったことが挙げられます。そしてもう1つ、第二次世界大戦後の財閥解体も要因として挙げられるでしょう。これらの要因によって形成されたフラットな社会構造と、資本主義の方法論が絶妙に噛み合ったことで、日本は戦後わずか40年にして「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の地位まで駆け上ったわけです。

さて、ケインズ主義型の資本主義と共産主義・社会主義が相対していた世界が再び転調を迎えたのが、1980年頃でした。1980年は、ミルトン・フリードマンの『選択の自由』が出版された年でしたが、ケインズ政策が機能不全に陥りはじめた状況への対応として、各国はフリードマンが旗手となった新自由主義へと舵を切りはじめます。大きくなりすぎて非効率化しつつあった公的セクターを縮小して、市場原理により多くを委ねる、すなわちレッセフェール(laissez-faire)への回帰ですね。アメリカではレーガノミクス、イギリスではサッチャリズムが登場し、いずれも沈滞した状況から立ち直ることに成功しました。こうした背景から、新自由主義は有効な処方箋として喧伝されたわけですが、実はほぼ同時期の1981年フランスでフランソワ・ミッテランが同国最初の社会党党首として政権を取っています。そして、ケインズ主義型の経済政策あるいは政治手法・理念をさらに超えた、のちに「修正資本主義」や「社会民主主義」と呼ばれる方法論が明確に登場したのは、このミッテラン政権下でした。今やフランスの国民負担率はほとんど北欧並みで、ピーク時には60%台後半まで上がっています。それほどまでに、再分配機能を担う公的セクターが大きな存在感を持っているんですね。

アメリカやイギリスの影に隠れて見落とされがちですが、この方向に舵を切ったフランスも、実はきちんと継続的に成長を遂げています。フランスというと、しょっちゅう暴動やストライキが起こっていて、不安定な印象を持たれがちかもしれません。しかし実際には、社会民主主義的な再分配を大きくすることによって、移民の増加や貧困層の拡大を乗り越えて、サステナブルに成長しつづけているんですね。少なくとも、日本のように世界170位台をさまよいつづけている、なんて状況ではありません。あるいは、1960〜70年代のイギリスが陥っていたとされる経済の停滞、いわゆる「イギリス病」のような状況に陥ることも免れています。このことは、社会民主主義的な方法論が、少なくとも新自由主義と並んで有効であるという実証になっていると考えます。

こういう背景を踏まえて言えるのは、資本主義は再分配および公共機能による修正があってこそ、持続的に社会を豊かにすることが可能であるということです。そして、その修正を担うのが民主主義だと考えるべきでしょう。つまり、国民が豊かになるための政策を国民自身が決定する機能が、健全にワークしていなければならないのです。資本主義をとっている先進国は、民主主義が機能しているからこそ、国力や幸福度を持続的に伸長させつづけてこられたわけです。

その反面、日本において起こっているのは、政治の消失、民主主義の消失とも言える状況です。国民の政治意識もすっかり薄弱になり、もはや資本主義の暴走を政治によって修正する力が働かず、あらゆる指標で見て凋落の一途を辿っている。これが日本の現状である、ということを、約2年前の発表において申し上げました。

そこから現在、多少なりとも状況は好転したかといえば、むしろもっと悲観的な状態に転げ落ちているように私は思います。国民国家として、あるいは近代国家としての弱体化が、雪崩を起こすかのように続いている印象があります。たとえば2018年、森友学園をめぐる公文書の改竄問題で赤木俊夫さんが自ら命を絶たれたことは、皆さんも鮮明に覚えておられると思いますが、公文書の改竄という大スキャンダルがテレビや新聞で公になったにもかかわらず、時の政権がのうのうと続いていく民主主義国なんて、世界を見ても他には存在しないだろうと私は思います。公文書の改竄が明らかになったにもかかわらず、公安もメディアも動かなければ、国民も何事もなかったかのようにスルーしてしまう。こんなことはロシアでもあり得ないんじゃないかと、私は大きなショックを受けました。現在の日本において世の中を良くしていくのがどれほど難しいことなのか、あの出来事で私は思い知らされた気がしました。

それから、野党の行動に対しても、言葉を選ばず言えば失望しています。2009年に民主党が一度政権を取って、それは結局グダグダに終わりました。それはそれでダメだったとは思いますが、その後の野党の動きというのは輪をかけてどうしようもありません。私自身、立憲民主党や国民民主党といった野党の方々に、いろいろ話を伺ったりお願い事をしに行ったりしたことがあるんですが、誰も本気で政権を奪取しようなんてことを考えていないんですね。少なくとも、まずは総選挙で勝たなければどうしようもないはずなのに、それすらまともに実現するつもりで動いていません。

私は別に、自民党が嫌いなわけでも、立憲民主党や国民民主党に帰依しているというわけでもありません。ただ政治というものは、政権交代がある程度の頻度で起こりうる前提があって、政治の舵を取る人たちの間に一定の緊張感がないと、決してうまくいきません。むき出しの資本主義に任せるにせよ、生産財をすべて国有化するみたいなやり方をとるにせよ、何かしらの極端に走る限り、必ずどこかで破綻する時が来ます。その意味で、野党がきちんと時の与党に対する脅威として立ちはだかる状況がないと、政治はどうしたってうまくいかないんですよね。

にもかかわらず、今の野党には、政権を取りに行こうとする意志が全く見られません。選挙で勝ちに行くどころか、負けるように負けるようにという方向に動いているようにさえ思えます。要するに、党内での既得権や自分のポジションばかりに意識が向いていて、今の日本の衰退ぶりや惨憺たる政治状況を変えるために動く意識があまりにも欠けている。こうした状況にもかかわらず、総選挙の際に野党協力の大同団結もできないというのは、国政を担う意欲と覚悟が欠けているとしか考えられません。この野党の体たらくが自民党の30%台の得票率と6割の議席を占める自公連立政権を続けさせているわけです。

最近の出来事を思い起こしてみても、国民の政治意識が一向に変わっていないことがわかります。東京オリンピックをめぐる汚職が明るみになったり、統一教会と政権との癒着が明らかになっても、根本的なレベルでは何も変わっていません。電通にメスが入り、ADKの社長が逮捕されても、特に誰も騒がない。汚職と癒着にすっかり慣らされてしまっていて、それこそアフリカの一人当たりGDPが世界150位以下の国々と大差ない政治状況になっています。そんななかで「ルフィ事件」のような、これまで日本の美点として語られてきた安心・安全が揺らいでいることの象徴となるような事件まで起こっていて、社会の基盤である正義と誠実が崩壊しつつあることをひしひしと感じます。この状況に歯止めをかけないまま、このまま10年20年と時が流れてしまったら、日本がその時どのような状況に陥っているか、考えると薄ら寒い気持ちになると言わざるを得ません。

こうした状況のなかで、この日本構想フォーラムが今後何をしていけるのか。事務局の方々ともお話しして、ひとまず得られた結論は、やはり時代を担う若者にメッセージを発信していくことが大事な役目であろうというのは間違いないだろうということです。要するに「日本は今こんな状態になっています、だからしっかり考えてください、力を蓄えてください」という旨を伝えていくこと、そしてそのための武器とまで言わなくても、せめて道具くらいにはなるような知の開放を図っていくことだと考えます。社会インフラとしてのインテリジェンスを強化するようなメッセージを、少しでも届けられたらというのが今の私の暫定的な結論です。これを踏まえつつ、以後の時間では、日本構想フォーラムの次のステップについて皆さんと話し合っていけたらと思います。ひとまず私からの発表は以上です。

ディスカッション

西川:お話ありがとうございます。今回波頭さんのスピーチを聞いていて思ったのは、キーとなるさまざまな変化が起こった時に、政治家をはじめとする決定力を持った人たちが物事をどう考えていたかというところです。

たとえば、小泉改革期に学術の分野で起こった大きな出来事の一つに、大学法人化が挙げられます。まさにあの時期、私は国立大学協会の一委員だったので、一連の流れを内側で目にしていたわけですが、太田誠一さんが「定員削減を免れたかったら法人化するしかない」と当時の有馬文部大臣に法人化を迫った時も、与謝野馨さんや森山眞弓さんたちは「心配いらない、自民党も半分は反対しているから」といったことを言われていたんですよね。ところが、森喜朗さんが失脚したあと小泉さんが政権のトップに立って、その当時日本の国立大学を16大学にまとめようという民主党の提言がありましたが、結局そこまでの事態にはならなかったとはいえ、法人化の流れは進んでいきましたよね。

あの時すごいなと思ったのが、有馬朗人さんのように政治基盤のない文部大臣だと、なかなか抵抗できない点です。また大学法人化に踏み切ったあとも、官僚だった遠山敦子さんをそのまま文部科学大臣に上げたわけでしょう。あの時の舵取りというか、政策を推し進めていた人たちが何を描いていたのかは、私にとっては本当に気になるところです。

波頭:いま名前が挙がった中だと、私は太田さんとはお話したことがあります。また財務省の官僚の方からもその案について意見を聞かせてほしいということでやりとりがありました。その時の話では、当時官邸での基本方針になっていたのは教育や研究のあるべき姿を十分に論じるのではなく、まず、お金の効率が最優先だったということでした。とりわけあの時期は小泉改革期で、「既得権のお金の部分にメスを入れていく」というのが小泉政権の錦の御旗でしたから。その方針のもと、とにかくすべてを定量化・効率化することに走っていたんですね。

実は、私も小泉改革の頃までは、新自由主義的な政策の支持者だったんです。「ケインズ政策は既得権が絡んで柔軟性を失っていかざるを得ない」「やはり市場主義こそ効率的である」と無邪気に信じていたんです。しかし、小泉改革下で起こったことを実際に目の当たりにしたことで「これはまずいかもしれない」と迷いはじめました。決定的に考えが変わって、再分配の重要性などを自ら主張するようになったのは、リーマン・ショック以降です。要するに、定量的な価値だけを指標にして効率化を図ろうとすると、正義や誠実さといった社会のインフラが蝕まれていく現実に気がついたわけです。市場メカニズムの尊重というかけ声の下で法や規制が未整備なところではやりたい放題が横行したわけですよね。たとえば、汚職がバレなければ一気に1年で100億円稼ぎ出すことだってできてしまう一方で、バレて捕まったところで、経済犯罪の刑期なんてせいぜい2年で済んでしまいます。定量化できない正義や誠実を置いてけぼりにしたそういうルールの下で起こったのが、リーマン・ショックだったと私は理解しています。大学改革はまさしくあの頃の象徴的な出来事だったと思います。毎年1%経常経費を削っていけ、なんて言われていましたが、その1%という数字にも確たる根拠はなかったわけですよね。

西川:あと、この時期の話の滑稽極まるものといえば、バイドール法の成立でした。端的に言うと、大学の特許などの権利は大学が主張せよ、という話に突然なったんですね。その時、つまり大学法人化のちょっと前に、京都大学に知財の委員会ができて委員になったのですが、その時特許を調べてみたところ、京大の名前で出ている特許って1997年時点では16件しかなかったんですね。ところが調べてみると、京大が他の企業と共同で出している特許というのは、実に2,000件に上っていたんです。バイドール法の成立によって、その2,000件をすべて大学が管理せよ、という話になってしまったわけですね。大学のスタッフのキャパシティを考えたら、そんなこと到底できるはずがありません。そのために、大学発の特許が管理しきれなくなって、ほとんど機能不全のようなかたちに陥ってしまった。そういうちぐはぐが、あの時にはあちこちで起こってしまっていたような印象があります。

波頭:この失われた30年を招いてしまった政治家に責任があるのは当然ですが、第二次安倍政権になって内閣人事局ができるまでは、官僚にも重大な問題があったと思っています。当時の官僚たちは、国民に公約を示して選出された政治家が出す方針なんかも平気で無視して、官僚機構こそが日本の政治をコントロールすべきだという傲慢な意識で政治を回していました。課長くらいになると「大臣の首の一つも取れないくせに課長の面なんか下げるな」みたいなことが平気で言われていましたし。

その意味で、内閣人事局という仕組みはある程度は有効だったように思います。ただ、それも運用の過程でどんどんおかしくなっていきました。官僚も官僚で、それまでは自分たちの支配とコントロールが手中にある限り二義的には国のことを考えていたのが、今や出世するためだったら公文書も改竄するし、部下が自殺したって、知らん顔をしてしまうという、極端なモラルハザードが起こるようになってしまいました。この状況下で倫理・意識面も含めて官僚機構の立て直しをどうするかは、非常に難しい話だと思います。

西川:アメリカだと、行政機関が知識の源として外部のシンクタンクや研究機関をかなり頼りにしている部分がありますよね。新型コロナウイルス感染症の蔓延に際しても、アンソニー・ファウチ博士が所属するアメリカ国立衛生研究所(NIH)などがアドバイザーとして機能していました。そういうふうに、行政組織の外の人たちと接点を持って国の行末をどうしていくかを話し合っていくといった仕組みは、政治家にせよ官僚にせよ、日本には全くなかったんでしょうか。

波頭:ないと思います。そもそも仕組み以上に動機がないんですよね。

山崎:国民が知的であることや、教育レベルを上げることに対する、強い動機みたいなものが、おそらく失われてしまったんでしょう。受験戦争あたりを勘違いしたのかもしれないですが、ゆとり教育に踏み切った頃から、もはや積極的に国民を愚かに仕立てようとしているとしか思えないですよね。

教育経済学者の中室牧子さんがどこかで書かれていたことには、今や公立の学校の教員の偏差値は平均をとると、いよいよ50を切りそうなところまで来ているそうです。結局、教育にきちんと投資して教員の給与も上げていかないと、教員の偏差値も下がるし、それに伴って子どもの学力もじわじわと下がっていくわけですよね。そこは長期的にかなり効いてきそうな話に思われます。

神保:動機も問題だと思うんですが、他方で能力の問題、すなわち知識や専門性のある人たちを登用できていなかったり、うまく活かせていなかったりすることにも問題があるように思います。たとえば再生可能エネルギーの分野を考えてみると、日本は3.11で原発のリスクの実現を真正面から経験したにもかかわらず、その後12年経っても再エネのシェアがまだせいぜい20%程度にとどまっているんですよね。これだけ低い水準にとどまっているのは、先進国の中でも日本とアメリカくらいのものです。

それで、これまでに日本がやってきた再エネ関連の政策について、デンマークをはじめとする再エネ先進国の人たちに尋ねてみると、彼らは「日本が犯している失敗は、私たちがまだ再エネについて手探りだった20年前に犯していた失敗とことごとく同じである」といったことを言うんですね。つまり、日本はろくに海外から学べていないという話です。

彼らの手厳しい言い方を借りて言うなら、日本の官僚はしょせん学士にすぎません。他方、デンマークやノルウェーで再エネ政策に携わっている人たちは、修士号持ちでさえ肩身が狭いくらいだと言います。ほぼ全員が博士号を、それも複数分野で取っているような人たちです。再エネ関連制度はやはりものすごく複雑で、ファインチューニングするためには相当の知の集積が不可欠であって、学士上がりでしかも2年そこらでポストを転々としているような人たちが、ちょっと頭をひねったくらいでまともな仕組みができるようなものではないんだと、再エネ先進国の人たちは口を揃えて言います。だから、現在の複雑化した社会において本当の意味で十全に機能する仕組みを作ることは、日本の行政においては能力の問題によっても不可能なのじゃないかと思います。波頭さんがおっしゃっていたように、東大ですら世界的に見たらパッとしないところで、学士のレベルも高が知れているわけですから。

もちろん、博士号持ちがどれだけ偉いのかという話はありますが、やはり専門家とは到底呼べないような人たちがクリティカルに有効な仕組みを築いていけるほど、甘い世の中はないのではないかと私は思います。それは再エネ政策に限った話ではなく、少子化対策やら何やら、あらゆる方面に関して言えることです。どの分野でも、他国の失敗から学ばずことごとく同じことを繰り返しているわけですよね。

波頭:政治家や官僚を目指す人で良い政治をするために自ら博士号を取ろうとする人はあまりいませんよね。

神保:ただ、日本は博士の人たちの能力や知見を活かすこともできていないのが現状ですよね。

波頭:おっしゃる通りだと思います。博士号などの専門性をもった人が報酬面でも冷遇されているし、政策決定の中枢に登用されていませんね。

神保:結局、有識者会議もあるにはありますが、官僚の考えた青写真に沿った答えをしてくれる人たちしか呼ばれなくなっているのが現状です。それに反したことをあまり言いすぎると、後ろから「この会議、2回呼ばれないと勲章がもらえないそうですよ」なんて囁かれるそうです。知見のある人が呼ばれていても、官僚の意向に沿わない発言は封じられている以上、有名無実化しているわけですよね。

波頭:私は2000年代に政府の審議委員を務めていたことがあるのですが、そこで驚くような経験をしました。審議会で話された内容のうち、主要な発言は紙の議事録に残され、紙の議事録に載りきらなかった部分についてはWeb上で公開されていたんですが、私が言った提言はそのWebで公開された内容からさえも抹消されていました。要するに、官僚の人たちの意に沿わない発言は、ことごとく無かったことにされてしまっていたわけです。

神保:今はだいたい、例えば原子力規制委員会なんかわかりやすい例ですが、裏委員会というのがどこにもあるんですよね。規制委員会はルールとして、3人以上集まったら必ず議事録を作成して、管理ガイドラインなどの公文書を残さなくてはいけない旨が定められています。また、委員会での公式の話し合いはすべて中継されていて、リアルタイムでその様子が見られるようになっています。ただ多くの場合、委員会の公開での話し合いというのは、裏委員会であらかじめ話し合われて決められた内容をなぞるものでしかないんですね。委員長と副委員長、それから原子力規制庁の長官、課長といった面々を含む5人くらいが事前に話し合って決めた内容を、おおむね台本通りになぞっていくだけというわけです。

そして、本番の委員会に出てくる人たちも、もちろん多少アリバイ作り的に反対意見なんかを述べたりはしますが、提言を根本から掘り崩しにかかるような意見は絶対に言いません。万が一そんなことをしようものなら、次回以降の会議には呼ばれなくなるからです。学者の人たちも、「どこそこの委員会にメンバーとして加わっていた」という実績はアカデミアでもすごくモノを言いますし、ライバルの人たちがそこに加わってくる事態は避けたいわけですから、根本的な反対意見というのは絶対に述べません。つまり、私たち一般人が見せられているのは、いわば台本の決まった最後のセレモニーの部分だけというわけです。多くの委員会はそんな形になっているのが実情です。

メディアの記者会見も、これと非常に似たような状況にあります。記者会見は今やオープン化されているわけですが、必要なことはだいたいその前の懇談なんかで話されてしまっているので、会見は実質セレモニーでしかなくなっています。にもかかわらず私なんかは、そのセレモニーの場でいろいろ突っ込んだことを聞くものですから、「神保さんったらまたあんなこと聞いて……」みたいにみんなから思われているわけなんですが(笑)、しかし本番の話し合いに入れてもらえない以上、聞きたいことはそのセレモニーの場で聞くしかないんですよね。他方、大手のメディアの記者たちは、会見前にあらかじめ本音のレベルの話をいろいろ聞いているんだけれども、それを公の場であらためて聞くなんてことをしてしまうと、その後そこに居合わせづらくなるんですね。そうなると情報も取りにくくなる。だから公の場では大事なところには言及しない、ということになってしまっているんですね。

山崎:アメリカの子会社をずっとやりつづけてきたなかで、国益というものが価値観としていよいよ空洞化してきたんでしょうね。結局のところ日本は一人前の国家ではなくて、そこに属している者として誰も彼も各々の立場から自分の利益を図っているだけだということが、お互いの本音として確認されてきてしまった。そんなふうにして、国益というものを重んじる根拠のようなものがいよいよ失われてきてしまっているのでしょう。

たしかにナショナリズムについては、悪い病気のようなものであって克服されるべきであると私は考えています。しかしそうは言っても、国益のようなかたちで何らかの集団共通の価値のようなものを守り高めていくことは、国が国として成り立っていくためには必要不可欠でしょう。そういう国の「芯」にあたるものが、今やすっかり失われつつある。ある意味では、これはアメリカによる占領政策が成功裡に終わったということだとも取れると思うんですね。

波頭:冒頭でお話した労働者の取り分を圧縮し配当として宗主国に献上するというモデルに象徴されるような植民地政策が功を奏したってことなんでしょうね。

山崎:そういうことなんでしょう。憲法をポンと与えられて、「どうせ武力も持てないんだからその辺でそこそこにやってなさい」といった具合に飼い殺しにされているうちに、アメリカを上回るくらいの知的水準を持たなきゃいけない、みたいなことをどんどん思わなくなったんですよね。

西川:国益の話を聞いていて思い出したことですが、昨日ちょっと京大の法学部の教授たちと話す機会があったんですね。彼らは審議会でいろんな法律案の作成に携わるわけですが、その中で民法の法案作成に携わっているとある方が言っていたことには、一生懸命議論して作った案を官僚のところに持っていった後で出来上がってくる法律は、それまでの議論をまるで無視したものになると。国のためにどういう民法を作っていこうかという話をいくらやったところで、最後は官僚と関連業界のちょっとした話し合いで元の案が歪められて、空洞化した法律が出来上がってしまうと言うんですね。学者も学者でそんな話を黙って見過ごすなというところではあるんですが、しかし本当に嘆かわしいことです。

波頭:中島さん、今日のお話を受けていかがですか。

中島:本当に多岐にわたる論点があって、どこから言及しようかというところなんですが、ひとまず先ほど神保さんがおっしゃっていた博士の処遇の問題については全く同意で、日本において博士の出る場所というのは本当にないですよね。私の現在の勤め先である東京工業大学は、来年から東京医科歯科大学と統合して東京科学大学というたいへん評判の悪い名前になるんですが(笑)、そこではまあ新しい科学の融合や、文理の枠を超えたコラボレーションによって新しいジャンルを切り開くといったことに、いろいろ取り組もうとしているんですね。ただ、そういう動きはある一方で、博士課程に以前ほど学生が来てくれないという現実があります。というのも、今や文系のみならず理系でさえも、博士過程まで行ってしまうと企業が採ってくれない、学生側からすると高いお金をかけて進学しても先が見えない、という状況だからですね。この点については、国家もそうですが民間企業もちょっと考え直してもらわないと、進むものも先に進まないと思います。神保さんのおっしゃったとおり、日本は諸外国がすでに経験した失敗を、そこから学ぶことなく繰り返しつづけているわけですよね。そういう状況を土台から立て直してほしいとは切に思います。

山崎:企業の実感からすると「博士まで取っちゃったような奴なんか採用したくないよ」ということなんですよね。

神保:言いなりになって思い通りに動いてくれるような人たちではないですからね。

あと、波頭さんがスピーチの中で示されていた数字って、基本的にはマクロな指標だったと思うんですが、もう少し細かい話をすると、日本の中でそこそこいいポジションにいる人たちの状況は、実はそこまで悪くなっていないんですよね。もちろん急成長というわけでは全くないですが、食えないような致命的な状況にも陥っていない。落ちているのは中間層以下の人たちだから、それより上のポジションの人たちの視点からすると、日本は右肩下がりだと言われてもピンとこないわけですよね。意思決定をできるような権力を持っているいわゆるエリートの人たちは、なんとか元々の生活水準にしがみつくことができてしまっている分、落ちぶれつつある日本の現状に対して実感が持てないわけです。

少子化対策の中身などを見ていても、明らかに念頭に置いているのはエリートの家庭や、大企業で働いているような女性なんですよね。その層の人たちに限って言えば、結婚もできているし出生率も悪くない。むしろ問題なのは、結婚や出産はおろか自分たちの生活もままならない人たちであるはずなのに、そこに対して何をしていくかという話はほとんど出てきません。それは、意思決定に関わっている人たちがことごとくそれなりに生活をできてしまっていて、大して困っていないからでしょう。官僚もマスコミも有識者会議も、なんなら政治家でさえも、困っている人たちの実感がわかっていない。いろいろ評価は割れているものの、困っている人の声をそれなりに反映できているのは、れいわ新選組くらいでしょう。立憲民主党だって、代弁しているのは労働者階級のエリートの声であって、非正規雇用の人たちみたいなクリティカルに困っている人たちの声は拾えていません。そうやって、国家の意思決定に寄与するところの大きい人たちが、真ん中よりも下のほうの人たちを切り捨てている状態が続いている面もあるんじゃないでしょうか。

結局のところ、沈みつつある船全体をなんとか引き上げようと考えるのではなく、他の人の頭に足を乗っけてでも助かろうとしている、そのほうが合理的だと考えている人が、社会の比較的上層にたくさんいるのかもしれません。そして、実際それはもしかしたら、彼らにとってはそのとおりなのかもしれない。

山崎:個別的な見方を取れば、それが最適という話になってしまうわけですよね。

神保:自分の子供のこととかだけ考えると、そういうことがしたくなる親がいっぱいいてもおかしくないですよね。

島田:政治主導で官僚の人事権を握る仕組みは、良いようにも悪いようにも使えるわけですが、結局日本で起こったのは後者だったわけですよね。先ほど話題に上がった内閣人事局も、善用すれば有能な人物を政治主導で行政のトップに据えたり、組織改革に役立てたりといったことができたはずです。しかし、実際には何が行われたかといえば、組織妨害や公文書の改竄みたいな制度の悪用で、そうなれば当然それをやらされる側も、自分のポストを守りにいくことになるわけですよね。

この間ちょっと立憲民主党の人と話した時にも、もし政権を取ったら、まずは人事力という大鉈を振るって徹底的に首のすげ替えを行って、それから公文書の改竄なんかを防ぐための原則をきちんと打ち立てて、悪いことをした人たちは一斉に処罰するといった、要は粛清をやるところから始めないとダメなんじゃないですか、といったことを言いました。それについては「小沢一郎さんはそんな考え方だった」といったことをおっしゃってましたね。

島田:話は変わりますが、さっき波頭さんが示しておられたデータですごく気になったというか、面白いなと思ったのは、各国の出生率で韓国がダントツの低さであるというところです。この点に関して、この間ちょっと韓国人の方と話したんです。最近の男女の恋愛率、要するにパートナーがいる人の割合について多くの人にアンケートをとると、6〜7割というずいぶんな割合の人に彼氏彼女がいないという結果になるというんですね。

それで、私は割と韓流ドラマなんかが好きで結構見ているんですが、そうするといわゆるメロドラマ的なものを見ていると、ちょっと夫が不倫した時なんかの奥さんの怒りというのが、結構異常なくらいの燃え上がり方なんですよね。そうやって、ドロドロの復讐劇なんかが展開されていく。あれは割と、韓国における恋愛や結婚における一つの「あるある」だったりするんじゃないかと思います。

そういった、男女関係に関する言ってみれば儒教的な考え方が、ある種の恋愛忌避にもし繋がっているのだとしたら、その社会的なコンセンサスを啓蒙的に変えていかないといけないんじゃないか、なんてことを思ったんですね。例えば、今のテレビドラマを作っているような人たちが、もうちょっと自由恋愛だったり彼女彼氏のシェアリングだったりという、割と日本人だったら得意そうなテーマに振っていくことが、少子化の歯止めになったりするんじゃないかといったことはちょっと思いますね。

一同:(笑)

波頭:しかし島田さんのお話って、決して単なる冗談とは言えないんですよね。というのも、フランスの少子化に歯止めをかけたトリガーってまさにそこでしたから。要するに、婚外子を公的に承認して、夫婦間に生まれた子供と同じだけの子供手当を給付するようにしたことが、フランスの出生率の上昇に有意に寄与したんですよね。

茂木さん、何か本日の内容に関してご発言ございますか。

茂木:まずは波頭さん、お話ありがとうございました。素晴らしいスピーチだったと思います。

ここまでのディスカッション含むお話の内容を踏まえて思ったのは、やはり日本は国民を積極的にバカに仕立て上げてきたという、山崎さんも先ほどおっしゃっていたところに同意せざるを得ないというところです。例えば、私の専門である脳神経科学の分野では、「ChatGPT」をはじめとする人工知能ツールが一つのホットトピックになっています。それがNHKなどの日本メディアのニュースでどう報道されているかを見てみると、本当にレベルの低い、まるで子供を相手にしているかのような内容なんですよね。これは米Microsoft社が開発した「Bing」というツールの話ですが、AIチャットボットが嫉妬や偏愛、破壊衝動といった強い感情を表出するような振る舞いをみせるという、俄かには信じがたいスキャンダラスな出来事が今年の2月頃にありました。こういった、AIにまつわるある種の本質的な問題提起につながるような内容については言及を避けて、当たり障りのない部分だけを能天気に報じている。国民の知的水準がどんどん下がっていくのもやむなしだと感じざるを得ないですよね。

あと、テレビに関していうと、日本の芸能のレベルの低さにも、私は正直な話呆れっぱなしなんですね。海外のコメディアンなんかを見ると、環境問題や男女のジェンダーバランスといった社会的な問題を臆することなく俎上に載せています。それに対して日本はいまだに、知的とは到底言えないお笑いや、はっきり言って程度の低いアイドルなんかがテレビショーを席巻していますよね。隣国のBTSがワールドワイドな規模で活動していることを考えると、あまりにも嘆かわしい状況だと感じざるを得ません。日本で最もレベルの高い大学だとされている東大の学生の行き先が、よりにもよってテレビのクイズ番組だなどという状況も、日本のメディアの、というよりは日本全体の知的レベルの零落ぶりを示しているようで、ほとほと嘆かわしく感じます。

ただ、別に日本にも優秀な人がいないわけではないんですよね。先ほど「博士号持ちは使いにくいから企業も採りたがらない」という話がありましたが、博士課程の3年間という限られた時間の中で博士号を取得できるというのは、それ自体がプロジェクトマネジメントスキルが十分に備わっていることの一つの証左なんですよね。そのスキルは企業においても活きるはずのものであって、博士号持ちはビジネスの世界では通用しない、なんて馬鹿げた話があろうはずがない。

むしろ問題なのは、コンテンツにせよビジネスのロジックにせよ、知的水準の低いほう低いほうにレベルが合わせられていることなんだと思います。本当にインテリジェンスのある人が本気で何かをやるということが、文化として無くなってしまっているから、日本はどんどん沈んでいっている。個人的には、そういう風潮にはどんどん抗っていきたい、別に今更テレビに出たいとも思わないからちゃんと言うことを遠慮なく言っていきたい、とは強く思っていますね。

團:茂木さんのお話、面白いなと思いました。最近私は、あるテーマの描かれ方が時代とともにどう移り変わってきたかというポイントに着目しながら各時代の映画作品を見ていくという、我ながら変な映画の観方をしているんですが(笑)、やはり昔の映画は、役者さんも今のアイドル的な俳優さんたちと比べると技量もあったし、監督もちゃんとしていたんだなぁとは観ていて思いますね。今はどうしても、人気のアイドルを起用しないと視聴率が取れない、興行収入も上がらない、みたいなところで、「どういうものを作るか」よりも「誰を出すか」が先行している。そこは昔と今でずいぶん変わってしまったところですよね。

團:博士の話が上がっていましたが、要するに、小難しい知識や論理を振りかざす博士より、水みたいにベチャベチャでどういう形にもなる学士のほうが使いやすいという考えなんですよね。何を言われてもニコニコしていて、ハイハイ言うことを聞くような人のほうが、企業や行政からは求められている。だから、博士よりは修士のほうがまだマシだし、修士よりは学士がいいという、そういうロジックなんでしょう。

神保:メディアなんかまさしくそうで、勉強した人ほど入社できないんですよね。

團:結局、知恵が回って扱いにくい人は配下に置きたくない、ということなんでしょうね。

この間、外国に留学する学生全体のうち、各国の学生がどれくらいを占めているかという統計を見ました。それによると、世界の留学生の約30%が中国人、そして20%がインド人によって占められていると。つまり過半数を中国とインドが占めているわけですね。翻って日本はどのくらいかと言えば、1%にも満たない。人口比を考慮したとしても、日本人の留学率が低いことは明らかです。もちろん、海外留学すればいいってものでもないですが、留学に象徴されるようなハングリー精神というのは、やはり日本人からは失われてしまったんだろうと思います。今の日本の若い人たちの多くは、ハングリー精神というものがそもそもわかってさえいないでしょう。

それから、中国やインドの人たちがなぜこぞって留学するかと言えば、それはシンプルに国に帰った時にいいポジションを得られるからですよね。その点日本はどうかと言えば、さんざん話題に上がりましたが、別に留学経験があろうと博士号を取ろうと優遇されるわけではない。人を採る側も、博士の人たちに「どういう博士論文を書いたのか?」なんてことをいちいち掘り下げて聞くのが面倒くさくなってしまっている。そういう社会になってしまっているということなんでしょう。

ちょっと話は変わりますが、波頭さんにぜひ聞いてみたいことが一つあります。報道の自由度が世界71位という状況で、私たちが知らされていないことというのはあまりに多いのだろうと思うのですが、とりわけ致命的に知らされていない、知らされていないことに気づけてすらいない人が特に多いトピックを挙げるとしたら、まず何が挙がるでしょうか?

波頭:これはなかなか踏み込みがたいテーマだと思いますが、やっぱり一番は日米合同委員会ですよね。国会どころか憲法の上にそれがあるというのは、私もパブリックなところで発言するのは憚られるくらいの話です。

神保:今回の防衛政策の転換も、どうしてやることになったかと言えば、結局はアメリカに言われたからという話なんですよね。けれども、報道に乗せるにあたってはその話には決して触れないで、他の合理的っぽい理由をいろいろ持ち出すわけです。

團:ということは、世界71位になったという、まぁその順位づけの元になる価値判断を誰がどのように行ったかはわからないですが、その理由としては、日米合同委員会みたいなものの下僕に成り下がっているという要因が大きいんでしょうか。

波頭:もちろんそれもあるでしょうが、私はそれがなくても日本のメディアの自由度は50位にも入れないと思いますね。まず最大の問題は、政府にとって都合の良い情報だけをメディアに流すしくみを作っている記者クラブだと思います。

神保:やっぱり情報のアクセス権が平等にあるかどうかが重要なんだろうと思いますね。日本はその点、特定の十数社にすべてのアクセス権が集中していて、かつその十数社が政府と持ちつ持たれつの関係にありますから、その意味で低い評価がつくのは納得かなという気がします。

團:学生と話していると「私たちは何を知らないんですか?」ということを尋ねてくるんですよね、「何を知っているか」よりも。「日本というのはどういう国なんですか?」「東京というのは客観的に見てどういう街なんですか?」という具合に、自分たちのルーツを聞きたがるんですね。先ほど、ナショナリズムというのはやはりよろしくないものだという話があったように、ルーツをめぐる問いというのはかなり微妙な問題ではあると思うんですが、それにしてもやはり自らの立ち位置についての探求や追究がなされてこなかったというのは、確かにそうなんだろうなと思います。

茂木:最近、加藤典洋さんの『敗戦後論』を読み返していたんですが、日本国憲法ってーーまぁあくまで一説では、という枕をつけておきますが、GHQが英語の原案を「15分で返事しろ」と言って突きつけて、その間に原案作成者のホイットニー局長は外で待っていて、帰ってきた時には「I was basking in your atomic sunshine」なんてことを言ってという、そういう顛末で決まったものですよね。平和憲法だとか言っているけれど、要するにアメリカが原爆という圧倒的な力をちらつかせて「15分で検討しろ」という言い方で押しつけたものであると。たしかに、それを差し置いても日本国憲法はいい憲法だという言い方はできるかもしれないですが、しかし日本の憲法学者たちは、そういう背景を見ないふりするという欺瞞をずっと続けてきたわけじゃないですか。今起きていることというのは、そういう知的な欺瞞の結果なんじゃないかとも私は思います。

神保:今日波頭さんが提示なさったようなデータが日本でほとんど共有されてないのは、マスメディアがああいう情報を圧倒的に歓迎しないからです。ああいうものを出した後でCMを流して「さぁこれを買いましょう、あれも買いましょう、このおいしいものも食べましょう」なんて言ったって、みんな買う気も食う気もしなくなってしまう。だから、まずもってスポンサーが歓迎しないですよね。メディアに行くと常に「そんなことより、なんかもっと明るい話ないの?」という話になります。結局のところ、日本のマスメディアは広告主に依存しているので、ああいう堅い情報はそれをもって「スクープだ!」みたいなことでも言えない限り、どこも真正面からは取り上げないわけですよね。「ルフィ事件の黒幕がわかった!」みたいな話だったら取り上げるかもしれないけど、波頭さんが出してきたデータみたいなものには誰も触れたがらないのが現実だと思います。

島田:報道の自由とどこまで直接的に関係しているのかはわからない話ですが、ASEAN諸国の首相や大統領のストレートな発言なんかは、時々ボロッと表に出たりすることがあるわけですよね。フィリピンのドゥテルテ元大統領も、米軍基地について「ちょっと出ていってくれないか」みたいなことをボロンと言ったりしてね。

波頭:でも、それで本当に追い出しましたもんね。

神保:結局また戻ってきちゃいましたけどね。

波頭:しかしそうは言っても、国民の意思として1回出て行ってもらったというのは主権の表明という意味ですごく大きいことですよね。フィリピンだけでなく、韓国だってどんどん制限をつけていますよね。ソウルから基地の立地を離したりとかして。

神保:波頭さんがスピーチの最後に触れていた「ルフィ事件」に関してですが、フィリピンから戻ってきた件の特殊詐欺のグループが、今すごくニュースになっているじゃないですか。まぁ「ルフィの正体とは!?」みたいな話はみんなすごく好きなわけですが、それよりも本当に面白いし注目すべきは、マクロのデータで見た時の特殊詐欺の構造なんですよね。結局、出し子や受け子として捕まる人たちは、ほぼ20代か30代前半の人たちです。ほとんどが貧困な、道を踏み外してしまった若い人たちですよね。それに対して、彼らに指令を出しているのは、40代や50代といったもう少し上の世代です。そして、詐欺の被害に遭っているのが、ほぼ例外なく70歳以上の人たちですね。それで、以前に何かの資料で見た話ですが、日本の金融資産って、ほぼ9割近くを60歳以上の人たちが持っているんですよね。それを、まぁいわゆる反社の人たちなんかが、貧しい若者を使って詐取しているというのが、特殊詐欺の構造なんです。要するに、これって格差の問題を完全に逆手にとった犯罪行動じゃないですか。

茂木:そういうポイントをこそ報じるべきなんですよね。

神保:そう、そこが本当は一番大事なんで、。でも、メディアはそういうところには触れないで、「ルフィは誰なんだ」みたいな表層的な話に終始している。

山崎:まぁでも、特殊詐欺もせいぜい被害額でいったら400億円くらいの規模ですからね。投資信託の無駄な手数料なんてその10倍20倍にも上るわけですから、言ってしまえば緩慢な特殊詐欺みたいなもっと酷い話というのは、実は世の中たくさんありますよね。

神保:特殊詐欺は話題性があるから取り沙汰されているという、言ってしまえばそれだけなんですよね。

 

波頭:話は尽きませんが、ひとまずここで一度締めさせて下さい。皆さま本日はありがとうございました。あらためて日本の厳しい現状を突きつけられた感はありますが、だからこそ、今後日本構想フォーラムとして若い世代の人たちに何をもたらしていけるか、今一度考えていく必要があるように思っています。これまでとは違った形ながら、引き続きみなさんのお力をお借りできればと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。