山崎 最近、資本主義に対する批判が世界でストレートに提起されるようになってきました。
日本でも資本主義を批判する書籍が散見されますが、直近では経済思想家の斎藤幸平⽒の『人新世の「資本論」』が話題です。同書では「資本主義はもう機能しない、捨てるべきだ」という趣旨の論が展開されています。
斎藤⽒の論とは、世界の気候の問題を考えた時に、資本主義は経済成⻑を志向するから気候問題は永遠に解決しない、だから資本主義は捨てなければならないというものです。⻫藤⽒は、2018 年にマルクス研究界最高峰の賞、ドイッチャー記念賞を史上最年少の31 歳で受賞していて、『人新世の「資本論」』は経済書にしては非常によく売れています。この斎藤⽒の著作にはマルクスの興味深い話が出てきます。
資本主義世界が誕生してモノの生産力が拡大を続けていくと、やがて資本主義には限界がきて、共産主義にいたる。従来、大雑把にいうと、『資本論』はそういうストーリーだと考えられてきました。しかし、晩年のマルクスは科学を勉強しながら自然と経済の調和に心を砕き、資本主義の成⻑主義、拡大主義を脱却しようとしていたという話が、同書には書いてあります。マルクス研究として大変面白いと思います。
資本主義においては経済成⻑を目指すことが必須だと考える人が多い。例えば、⺠主党政権の頃、「日本は人口減少しているから、もう経済成⻑はしない。だから日本の資本主義はもう限界だ」と強調するエコノミストがいました。
また、資本主義が成⻑するためにはフロンティアが必要だという話もあります。フロンティアとは、農村から出て安く働いてくれる労働力であったり、発展途上国であったりと搾取できる対象のことです。そうしたフロンティアが無くなってきたからもう資本主義は限界だという論もあります。
しかし、人口減少やフロンティアの消滅によって経済成⻑ができなくなると、資本主義を維持できないのでしょうか。
こうした論では、そもそも資本は成⻑を求めるものだから、その成⻑が制約された時に資本主義は成立しなくなるいという思い込みがあるように感じられます。マルクスのフレームで考えても、近代経済学のフレームで考えても、この思い込みがあるために、資本主義は成⻑しないと成り立たないという議論に必然的に陥ってしまうのです。
しかし、そもそも資本とは何かと考えると、それはビジネスの元手として使われているものであって、資本家の持っている財産やお金に過ぎません。「資本」というあたかも意思と実体を持つ生き物のようなものが存在するのではない。資本家の持つ財産は、リスクに対して十分な収益率のある投資先に向かいます。従って、十分な収益率が得られそうな投資先がなければ無理に資本を投資する必要はなく、代わりに美味しい高級レストランへ行ってもいいし、⼀泊50万円の部屋に泊まってもいいわけです。
資本家は常に収益率の計算をするため、投資の機会がなければ自動的に資本の供給は縮小されます。すなわち、経済成⻑がなければ資本の量は自動調整されるということです。企業経営の例で考えてみると、企業は得た利益を配当に使ったり、自社株買いに使ったりして、次の投資に回さないという選択もできるのです。
資本の量は増やすことも減らすことも出来る、供給量が調節可能なものだということが、左派の言う経済成⻑がないと資本主義は限界を迎えてしまうという話の盲点になっているのです。
斎藤⽒は、資本主義を捨てて社会的共通資本のようなものを共同管理するコミュニティ、あるいは素朴なユートピア的な共産主義を作ることを提案しています。つまり、生きるために必要な生産とは何かをみんなで熟議して決めることで、資本主義による経済成⻑を目指す考え方とは決別しようという主張です。
しかし、私は資本が成⻑とは結びつかなくても良い、すなわち「成⻑しない資本主義」があっても良いのではないかと考えています。資本主義が必ずしも経済成⻑と結びつかなくても成立するならば、むしろ社会の意思決定システムとしての資本主義は維持した方が良いのではないかと思っています。
斎藤⽒が言う共同管理するコミュニティだと、どの分野がエッセンシャルで、どういう商品をどれくらい作ろうか、誰がどういうサービスを担当するか、それらを議論して意思決定する必要があります。しかし、議論によって決定すべきことは膨大な量になるでしょう。それでも、決定しなくてはいけないとなると、必然的に計画経済となって独裁に繋がっていきます。熟議とかコモンとかを過信しない方がいい。
⺠主主義で処理可能な程度の意思決定をしながら我々が等しく自由な生活を営んでいく上では、やはり我々は市場を用いた意思決定のシステムを守っていくべきでしょう。それを捨てて合意に基づく計画という実際には現実的でないシステムを空想することで資本主義を捨てようとする考え方は、少々安易なのではないかと思います。但し、市場の仕組みとか所有権の設定とか、ゲームのルールには工夫の余地があります。