伊藤 僕が日本語を正確に理解できていないのかも知れませんが、貨幣や会計といったものと資本主義は異なると思っています。僕が知っている資本主義はgrowthが必要で、もし成長の限界がきて経済が縮小する場合には、貨幣や会計は残ってもいわゆる普通の資本主義は機能しなくなると思っています。マーケットがあって経済が動く場合には貨幣や会計が必要ですが、最近では貨幣や会計を捨てるような倫理も出てきています。
環境問題への対応として、魚や木も含めてカーボンのコストの計算をきちんと行えば環境破壊が防げるという考え方がありますが、アメリカを中心として新しい考え方が出てきています。
95%のバイオダイバーシティは原住民が暮らす25%の土地にあり、これまでは原住民たちを追い出すことで環境保護をしようとしてきたが、実は一番環境を保護しているのは原住民であるというデータが出てきているのです。原住民の権利を保護して、彼らの生き方を守るべきだと考える様々な慈善事業者が動いています。
そもそも多くの原住民はpropertyの概念を持っておらず貨幣も認めていません。ネイティブ・インディアンはpropertyという概念を持たなかったため、ヨーロッパの人が来て「これは私たちの土地です」と言った時に、その意味が分からなかったという話があります。
全ての自然を数値化することで環境を保護しようとするnaturaleconomyと呼ばれる西洋的な考え方とは異なり、原住民たちはこの木とこの木は一緒にしちゃダメだという日本の神道の感覚に近い考え方で環境を保護しているのです。通貨や貨幣を捨てて、地域や自然の意識に戻っていこうという考え方が、ヨーロッパの哲学者や原住民から出てきています。
こういう考え方と似た感覚を持つ神道がある日本で、西洋の資本主義っぽいことばかりが語られていることがもったいない、と外から見ていて感じます。ヨーロッパの若い人たちは、ネイティブ・アメリカンやポリネシアに注目していますが、日本も自然が豊かで神道の精神を持っている国なので、世界中の若者のリードする文化を生み出せるはずです。アメリカにいると日本は政治でぐちゃぐちゃしていて、チャンスがあるのにゲットできていないように見えます。
ただ、日本語の本を読めていないし、日本の文化も分かっていないので、もしかしたら日本の中では古典的なプレキャピタリズムの考え方を持つ人がいるのかもと思っています。
島田 天皇にはその可能性はあると思いますが、神道には可能性がないと思います。むしろ伊藤さんがおっしゃったアメリカの先住民文化に根差した反キャピタリズムは、最初はカウンターカルチャーという形で現れて、日本でもカウンターカルチャーの影響を受けた一定数の人たちは反キャピタリズム的なことを主張したかもしれません。でもそうした動きと神道はあまり結びついていないように思います。
波頭 日本で無くなったのは神道ではなくお天道様だと思います。お天道様が見ている、お天道様に恥ずかしい、お天道様の意図にもとる、ということで自然と人間がナチュラルに調和するような行動規範が決まっていました。お天道様は一神教的な善悪とは異なっていて、先ほどの原住民たちと同様にナチュラルな形で世界を認識するためのものでした。お天道様が承認してくれることをベースにした社会と価値観の中で、経済のツールである市場や貨幣を活用することが一つの落としどころであると思います。
伊藤 神道という言葉が良くなかったのかもしれません。僕が言いたかったのは、例えば伊勢神宮は建て替えるたびに大きくしようとはせず、同じ大きさで20年ごとに建て替えるから何千年と続くのだし、里山も広げるのではなく大切に生き生きとした状態を保つことが大事で、根は元気だけど拡大はしないという古典的な文化です。どこかのタイミングで成長が喜びに繋がってしまったのだろうと思います。
波頭 たぶん僕が言っていることと近いと思います。僕がお天道様と言ったのは、価値観やカルチュラルな側面で人間に本能的に内在している、自然との調和の良き塩梅のことです。
中島さんはいかがでしょうか。
中島 内田さんがおっしゃったナショナリズムや国民国家の初期化という問題は非常に重要なポイントだと思います。ナショナリズムは平等な主権者という問題と密着して生まれてきた概念です。
フランス革命が典型です。アンシャンレジームのように一部の人間が絶対王政的に権力を持っていることへの疑問から、国境の内側に住む人間は平等な主権者であるという平等の主張と主権の主張がナショナリズムとしてあらわれてきました。
あるいはインドの独立運動でもイギリスが主権を独占していることへの疑問から主権要求がなされました。日本においては明治維新ではなく自由民権運動がこうした運動の初発だと思います。藩閥政治に対して、なぜ一部の人間だけが政治を握っているのか、一般国民こそが主権者であり国会を開け、と言ったのが板垣退助です。板垣は愛国公党や愛国社という団体を作りました。彼らはナショナリズムの原理をよく理解していたと思います。
非常に重要なのはここから玄洋社という右翼が生まれてきたことです。こうした流れは後に大川周明や北一輝というマルクス主義たちと連結していきます。五・一五や二・二六の思想的背景として、天皇以外はただの人であるという一君万民に基づく昭和維新の平等思想がマルクス主義的な革命理論と接続したことがあると思います。
白井聡さんは『国体論』という本を書いて、上皇への敬意を示しています。
新しいマルクス主義の動きが天皇への希望、一君万民へのロマンへと接続していくことで日本では思いがけないことが起きるのではないかという気がしています。
内田 戦後の日本国憲法下の象徴天皇制において、特にいまの上皇陛下は天皇制をキリスト教的なアイディアで再解釈しているんじゃないかと思います。十字架を背負って受難する人が一人はいないと共同体が存立しないという考え方です。これは人類史が始まって以来ずっと続いてきた供犠という概念です。
一君が特権を享受するのではなく、むしろ万民に先んじて受難する。そういうフィクションが広く信じられた場合にのみ、日本国憲法と整合する象徴天皇制のアイディアがある種の世界標準性を持ちます。死者のために悲しみの場に立ち、compassion(=共苦)する役割に専従する「受難専従者」です。もし日本国憲法下において象徴天皇の場所があるとすれば、そこしかないということを上皇陛下は理解されているんだと思います。
それ以外の場所に立つと、さまざまなイデオロギー的な立場から政治利用されたり、あるいは不要なものとされて、天皇制廃止論が勢いづく。このポジションが、日本国憲法と太古的な天皇制がぎりぎり整合できる。そういうポジションを上皇陛下は熟考の末に選ばれたような気がしています。
波頭 ダライ・ラマみたいなものですね。
中島 どういう形でナショナリズムとマルクス主義的な想像力が天皇と繋がってくるのかを注視しています。
内田 マルクスにおいても、全ての市民が等しく同じ権利と義務を持っているとは考えられていません。集団全体の公的な利害と自分の個人的生き死にが完全にリンクした人間としての「類的存在」がいて、この人たちが人類史を更新してゆく。革命の時にも、独立戦争の時にも、一身を捧げて大義のために死んだ市民がいた。そういう人が一定数いないと革命なんか成就しません。
マルクスも全員がひとしく階級意識に目覚めて、全員がひとしくその階級的責務を果たすべきだとは言っていないのです。フランス革命はブルジョワ民主主義のための闘争でしたけれど、そのときに誰もが自己利益の追求に邁進できるような市民社会をつくるためにフランス革命の闘士たちは一身をささげた。自己利益を軽んじて大義に殉じる革命家たちがいなければ、誰もが自己利益を追求できる市民社会はできなかった。そこには義務のばらつきがあるんです。
その点でいえば、天皇制とマルクス主義は水と油ほど異質ではないと思います。普通の人たちは個人として好きなだけ私的利益を追求して構わない。しかし、共同体が存立するためには、公と私が一身において一致している人が必要です。そういう人が出てこないと歴史は動かない。世界中どこでもそうだと思います。
波頭 最近ではそういう場合に3.5%の人が動けばよいという説が喧伝されています。
内田 僕もそれくらいの割合で十分だと思います。
島田 内田さんのご説明からすると、三島由紀夫の贈与(一種の自己犠牲)を私どもは全く使いきれなかったということになるでしょうか。
内田 三島由紀夫があそこで死なずにただの右翼の論客で終わっていたら、思想状況はいまとはずいぶん変わっていたと思います。三島由紀夫の死のインパクトは大きいです。
三島由紀夫があの時に腹を切らなかった場合、その後の日本では今とは別のものになっていたと思います。もちろん、それはタイムマシンで戻って、違う道を進んでみないと分かりませんが。
島田 僕は左翼にとっても僥倖だったと思っています。右翼の行動をある程度まで抑制できたと思うのです。三島がおこなったことを右翼が神格化して、それ以上のことを右翼が出来なくなりました。
内田 そうですね。個人で出来る極限のことを三島由紀夫がやってしまったので、右翼には「あれより向こう」に行く道筋がなくなった。
島田 そうです。そういう禁忌を自ら設定したという意味では、左翼にとっての素晴らしい贈与であったと思います。