和田 お金を持つことに意味がなくなり、知を持つことでいろいろ得られる時代が来るのかもしれないですね。
波頭 そうなると、貨幣をメルクマールにした市場経済が、過去のものになりますね。
山崎 昔は力の強いやつがモテた。今は金持ちがモテる。今度は知の世界で評判を得た人がモテるようになる、と。わかりやすく言うと、こういうことですね。
西川 インターネットの登場で新しい価値観が生まれてきていることは確かです。たとえばポリマスというプロジェクトではフィールズ賞をもらった人が、自分の解けない問題をネットで公開しています。すると2ヶ月で解けたのです。それまでは誰もがフィールズ賞がほしくて一人が解いていたのに、今ではモジュール化した部分をみんなで解いて答えを出しているのです。そんな価値観が生まれてきています。
波頭 そのときに、新しいバリューの形とか、価値の大きさを表すメルクマールとか、交換の仕組みとかは、貨幣経済には乗らないでしょうね、きっと。
山崎 お金を介在しないで交換をしたほうが能率がよくなれば、課税されないで経済を営むことができるようになります。そういう意味では貨幣による交換のシステムが情報処理で超えられてしまったときに、貨幣は要らなくなるのではないでしょうか。
波頭 貨幣が介在するものを経済とすると、生活の中の経済的なものがすごく小さくなるでしょうね。
公文 情報社会では、食べていくだけなら、それほどお金はいらないのです。底辺というかロングテールのほうでは、たとえば三次元プリンターを使って、ほとんどのものが自給自足できるようになる。あとはちょっと珍しいもの、面白いもののレシピを交換すればいい。一方ビッグヘッドのほう、つまり強烈な欲望を持ってそれを満たしたいという層ですが、金融で何十億ドルをうまく儲けたとしても意味がなくなるかもしれない。なぜなら、もっと別の面白いものや、満たし方がでてくるからです。
山崎 「富のゲーム」の重要性が低下するのですね。
上杉 坂口恭平という人が今、貨幣経済を否定してnetiznというか知民の間で今話題になっています。彼は貨幣を破いて、新政府の樹立を宣言しました。
茂木 彼は自分なりの直感から「貨幣がなくなる」と言っていますが、貨幣とは要するに国家です。それがなくなるという議論は、そう簡単には成り立たないと思います。確かにウィキリークスの活動などを見ていると、彼らによって国家や国境という概念が揺らぎ始めていて非常に興味深い。これから貨幣はなくなって情報が重要になるという話は、ある意味リアリティがあります。でも国境というのは依然としてあるわけです。シリアみたいな国家も北朝鮮みたいな国もあります。情報の重要性が増してきていることは事実ですが、それによって貨幣や、その後ろにある国家の意味がすべてなくなるという議論はどうでしょう。国家や国境が、ある種の意味合いを持たざるを得ない構造が続くのではないでしょうか。
公文 国家をなくせという議論はほとんど意味がありません。自然になくなることはあるかもしれませんが、なくそうなんて考えたら抵抗が大きすぎます。お金もそうです。お金をなくせと叫ぶのではなく、普段ほとんど使う必要がなくなったという状況になれば、お金があってもなくても、どうでもよくなるわけです。そういった変化の方が重要でしょう。
島田 貨幣は元々情報です。それ自体は価値がないもので一種の象徴、アート作品みたいなものです。それが歴代の貨幣になってきた感じがあります。だから貨幣の形態が時代に合わせて変わるということはあるでしょう。たとえば今、貨幣の信用は国家が担保していますが、そういう約束事も変わるかもしれない。
山崎 私は「富のゲーム」が専門ですが、そこから類推すると「智のゲーム」のルールに興味があります。ゲームにはルールが必要であり、それを誰かが担保する必要があります。「威のゲーム」なら国がその役割を果たしました。「富のゲーム」の難しいところは、ルールを担保している人たちが同時にプレーヤーである点で、彼らも富に買収される可能性があることです。そういう中でルールを担保するコストを誰が払うのかが非常に大きな問題です。実際、「富のゲーム」では金融の制御というか信用の制御が難しい。「智のゲーム」のルールがどうなるかはわかりませんが、「智のゲーム」でも、コンピュータなどのインフラが必要であり、めしも食わなければいけないので、「富のゲーム」が「智のゲーム」のルールを支えるのではないかと思います。
上杉 軍事革命や産業革命と同様に知民革命が起こるかもしれないという話ですが、いま、首相官邸の前で行われているデモをどのようにご覧になりますか。1960年代〜70年代のデモと違い、警備の人たちに非常に協力的で、夜8時になると主催者がマイクで解散を告げて、ゴミ拾いをして帰るというデモです。
公文 情報化社会では、そういった行動が一種のお祭りになっていく現象があるようです。ジャスミン革命もそうです。暴力沙汰もないわけではありませんが、どちらかというとお祭りムードで、楽しくやっている。
波頭 暴力性と武闘性が明らかに薄くなっています。
公文 ただ、60年安保のときも、当初はそれほど暴力的ではありませんでした。でも樺美智子さんが亡くなって、そこで質的な転換が起こったのです。私もそれまであまり関心がなかったのですが、ニュースを聞いて国会の前に駆けつけ、突入を止めようとしました。
和田 アイルランドで麻薬撲滅運動に火が付いたのも、その問題を追いかけていたジャーナリストが麻薬組織に殺されてからですね。
波頭 人の死とはそれだけ大きいことなのです。仲間が死ぬと人間は、本能的に何らかのスイッチが入るのでしょう。