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危機,組織,国家そして保護の時代

キーノートスピーカー
西部邁(評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、團紀彦、南場智子、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

キーノートスピーチ

西部 危機管理という言葉がリスクマネジメントと訳されているが、間違いだ。リスクとは予測できるものである。しかし歴史認証は厳密に言えば一度限りのものであり、予測などできないと百年前から言われている。特にシュンペーター以降の、新しいことを次々と起こすことが進歩だといわれているイノベーションの時代においては、ますます歴史認証は一度限りの色合いが強くなる。とすると、予測できないのだから危機はリスクではない。何が起こるかわからないという意味ではクライシスと訳すべきであり、予測ではなく、想像か予想ができるのみだ。

次にマネジメントだが、これは合理的に予測して対処するという意味だ。しかし予測ができないならマネジメントもできない。我々にできることは「ルーリング」(統治)であると、政治哲学者のマイケル・オークショットは言っている。実際、イギリスがインドを統治したとき「将来、インドで何が起こるか」が予測できたわけではない。しかし分割して統治することで、長期の統治を成功させた。つまり危機に対して必要なのは管理ではなく統治なのである。

西部邁氏

では危機統治は何によって可能か。それは人間組織である。人が予想し、経験知を活かし、なんとか統治していく他ない。では危機を統治する人間組織に必要なものは何か。それは「自由・平等・友愛・合理」といった価値ではない。価値は、抽象的には普遍的なものとして語りうるが、具体的には国民性や歴史性が違えば、具体的かつ個別的に異なるからだ。価値はある意味、理想であるが、一方で現実――「秩序・格差・競合・感情」がある。この理想と現実のバランスを取る平衡が「規範」すなわち「活力・公正・節度・良識」であり、規範こそ人間組織の基本であるべきだ。そしてこれら規範を具体化するのは、国民性、地域性など状況である。それぞれの状況の中で、規範の本来性を一貫性をもって実践するのだ。

このように危機統治をするための人間組織には、国民性や地域性などの状況下で実践される規範が求められるが、今世の中で進んでいるグローバリズム(世界画一主義)は、その逆をいくものだ。かつて左翼がインターナショナリズムという言葉を使っていた。本来の意味はネーション(国)とネーションの間(インター)をどうするのかを考えることであったが、いつのまにか、共産主義を世界に普及させるという意味に置き換えられた。このことはソ連だけの問題ではない。同様の画一化は米国も行っていることであり、今の中国にも言えることだ。

ここで「国」というものについて改めて考えてみたい。ホセ・オルテガは「皮膚としての国家」と言った。外と内を分けるものであり、数多ある細胞を全体としてひとまとめにして保護している、おかげで心身がある程度自由に動ける、という意味だ。

こうしたネーション・ステート(nationstate)の考え方はウエストファリア条約が出来てから成立したという見方があるが、これは表面的過ぎる。17世紀に生まれたものではなく、国際法として確認され始めたのがその頃からだということで、歴史上ずっと存在していたものなのだ。そして国は、乗り越えることは不可能であり、その必要もない存在だ。

こういう話をすると「国家主義だ」「民主主義を否定する」と反応する人もいるが、そもそも民主主義は無条件で礼賛されるべきものではない。デモクラシー(民主主義)の「デモ」とは、デマゴギー(民衆扇動)の「デマ」、つまり扇動されて右へ左へ揺れ動く民衆のことだ。こうしたデモクラシーは危険であり、なんとかしようというところからプラトンらの政治学が始まったのだ。もちろん、デモクラシーよりすぐれた政治制度をここで提示できるわけではないが、デモクラシーが非常に不安定な統治状態をもたらすものであることは覚えておくべきだ。また、「民衆」と似た言葉に「大衆」(マス)がある。マスは大量という意味であり、大量現象に乗っかる、あるいは煽られる人々がマスである。この言葉は英語圏やドイツ語圏では、愚劣で低劣な人々という意味である。フランスの思想家トクヴィルは、米国こそ最初に出来た大衆社会(マスクラシー)であると言っている。その米国を模して進んできた戦後の日本も、同様である。

こうしたマスクラシーやグローバリズムが進む現代社会は、間違っているといわざるを得ない。その根拠は、人間の定住性にある。グローバリズムやマスクラシーは、文明が進歩し、情報技術が進化することで、人が容易に動くようになり生まれた。しかし人間には、広い意味での定住性が染み付いている。たとえば経済学的なマーケット論で言うと、男女の関係は、毎週マーケットに行ってその週の一番いい異性を選ぶことが理想形のようになる。しかし実際にはそうはいかない。人間は歴史的動物で、経験を踏まえる動物で、定住性があるからだ。こうした感覚を無視したグローバリズムやマスクラシーは、大学の研究室で話されている分には無害だが、国家の真ん中で政策として語られると有害だ。