西川 柄谷さんの『哲学の誕生』の中で語られている支配しない分配、イソノミアを、現在においてどう構想できるかということですね。無支配という自由さを、僕らは個人と社会の意思決定にどう実現していけばいいのでしょうか。
波頭 イソノミアに対して理想のイメージを持った権力者がいて始めて⺠主主義は健全に機能する。そう考えると、隷属する親分を待っている市⺠(日本人)に対して⺠主主義を与えるのは危険なのかもしれません。
島田 マルクスはゲバルト(暴力)を肯定しましたので、共産主義への手段となるのは、資本主義の強制終了です。このゲバルトの伝統もまたヨーロッパには今もかろうじてあるのでしょう。焼き討ちしますからね。
波頭 ⼀方、日本だと、焼き討ちや⼀揆は歴史的にあったけれど、ほとんどが失敗に終わっている。2・26事件も見事に失敗しています。
島田 中国はゲバルトの成功がありうる国家です。王朝の退廃期には道徳的動機から宗教運動が勢力を広げています。現代であれば法輪功(カルト集団)。王朝はそういうカルトが怖いので、ムーブメントが起きると、徹底的に市⺠を弾圧します。
波頭 日本人は口を開けて支配者を待つような国⺠性になってしまっていますから、イソノミア的な、あるいは自律的な自由を求める本性が欧米や中国よりも弱いのでしょう。
團 日本では「資本」という言葉が江⼾時代までなかったのですが、別の言い方があって「元手」と言っていました。
また、江⼾時代まで都市、公園という言葉も概念もありませんでした。資本主義についても、言葉がなかった時代に戻って、どのように考えていたかを考えるのが良いですね。もちろん遅れた考え方になるかもしれませんが、過去に戻ることで自由になれる面もあると思います。
街の中の資本には、個人の資本と公共の資本という2つの資本があります。中国で仕事をしてから、⼀応社会主義の国となっているため、土地が国有という全く日本と違う状況が街並みや都市空間にどういう影響を与えるのかに興味を持っています。しかし、日本と大した違いはありませんでした。人間が建物を建てる。それはあまり政治体系とは関係ないのでしょう。
また、公共の資本について言うと、日本でも広場や道路などの公共建築物は、そのスポンサーが政府や自治体だけとは限りません。⻘山の普通の狭い街路を見ていると、1階が美容院になっていて、2階、3階に人が住んでいる。昔だったら家は塀で囲われていて、塀の中はプライベート、塀の外はパブリック。ところが、現代の美容院には不特定多数の人が入ってきます。
そうすると、それはコマーシャルイズパブリック(商業は公共)とも言えます。1960年代までは、パブリックは公共というように、コマーシャルイズパブリックというのは考えられなかった概念です。
なぜなら、商業はマルクス主義的に言えば、⺠間の利潤追求に過ぎないからです。しかし、実際に街を歩いてみると、コマーシャルイズパブリックという面が多々あります。また、小さな商業空間と大きな商業空間はまったく違う様相になっています。
島田 ヨーロッパの場合、公共の広場が教会の周辺に必ずあります。東京の場合は、皇居前広場が終戦直後まで公共の広場でした。関東大震災のときは、焼け出された人が皇居前広場に多く避難しており、ある研究によると、そこでは焼け出された人たちが介抱されていたそうです。当時、皇居前広場は非常に公共性があったのかもしれません。
波頭 ヨーロッパの教会と比べ、日本は精神的にも社会的機能としても、寺社(寺院と神社)のプレゼンスが薄らいでしまいました。昔はお上だけではカバーできない公共サービスを、公共精神を含めて寺社は担っていたし、都市機能としても、お寺は駆け込み寺という言葉もあるように公共性を担っていました。しかし、現代ではこれが失われてしまっています。
島田 今だと、駅前やコンビニ前が公共空間的です。
山崎 私的所有権といったときの所有権の設定の仕方に問題があるかもしれないと言っている経済学者もいます。マルクスとは全く反対側の数理経済学の学者たちです。
どういうことかというと、土地に対しての所有権を認めると、独占が必然的に発生するということです。例えば、駐車場です。再開発でやがて需要が発生するだろうから、しばらく抱えておいて売り惜しみをしておく。そのような形で、独占が発生しているわけです。
そこで独占が発生しないよう、土地なら土地に対して、所有権は認めずに使用権だけをオークション的に売買するという考え方があります。
例えば、ある人が「この土地は100億円だ」と宣言する。そして、固定資産税を7%払う。そう宣言した人は、この土地の使用に対して毎年7億円払わないといけない。でも、新たに200億円と宣言した人が出たら、必ずその人に使用権を譲渡しなくてはいけなくて、その代わり200億円と宣言した人は14億円の固定資産税を払わないといけない。
そういう形の制度に所有権を作り変えると、売り惜しみによって発生する資源の無駄が発生しなくなります。土地や電波のように供給が制約されたモノに関してはモノを持っているみたいな形ではない専有権みたいな所有権を設定するのもいいかもしれません。『ラディカル・マーケット脱・私有財産の世紀』という本に、そういう構想が書かれています。
所有権なのか、使用権なのか。また使用権の場合、それは⼀時的なものか、永続的なものか。所有権では独占が認められているために、私的財産の自由な売買システムが上手くいかないのかもしれません。
波頭 利用権にしても、やはり独占が発生するのではないでしょうか。独占が発生しない仕組みが上手く入っていればいいのですが、『ラディカル・マーケット脱・私有財産の世紀』には独占が発生しない手立ては書かれていなかったと思います。
山崎 そうですね。結局、他人の利用を排除した時に大きな利益が得られるという経済的な仕組みがある以上、独占を完全に排除すること無理なのでしょう。
波頭 そうですね。独占の排除は本当に難しい。金融のレバレッジを上手く効かせて、LBO(企業買収)をどんどんして、全部買って全てを支配した上では、何でもし放題になってしまう。なので、独占が発生しないような税率の設定ができれば良いが、これがまた非常に難しい。
山崎 確かに難しい。