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22世紀の民主主義

キーノートスピーカー
成田悠輔(経済学者)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、茂木健一郎、山口周、山崎元

民主主義のアップデート:無意識民主主義へ

そもそも「民主主義とは何か」という問いは、さまざまな観点から考えて回答を出すことが可能なもので、そういった意味の多様性、アプローチの多様性そのものが、民主主義の価値の源泉だとも言うことができます。そして、そういった多数の観点の一つとして、民主主義とは単なるデータ変換のプロセスである、と考えることもできると思います。つまり、あらゆる民主主義の具体形ないし実装は、①我々がどんな民意ないしは一般意志を持っているかに関するなんらかの入力データを用意し、②その入力データを流し込んだうえでなんらかの意思決定のルールやアルゴリズムを走らせ、③出力としてなんらかの社会的な意思決定を行う、という図式で捉えることができるはずで、選挙民主主義もこうしたデータ変換のきわめて特殊なあり方の一つと言えます。

こうしたデータ変換プロセスとしての民主主義を、現在の技術的な環境を活用することで、これまでと大きく違うものへと変更ないし拡張することができるのではないか、というのがここからお話ししたいことです。図10は今からお話しするアイデアを簡単に図示したものです。具体的にどういうことが考えられるか、まずは入力データの側に着目してお話ししましょう。

図10

繰り返しになりますが、ここでいう入力データとは「人々がどんな民意と一般意志を持っているか」に他なりません。そう考えると、入力データのチャンネルを、選挙における投票だけに限定する理由はほとんどないように思われます。たとえば、ここ2年ほどのあいだにZoomなどのオンライン会議ツールの浸透が大きく進みましたが、こうしたツールのアドオンとして、それぞれの人があるトピックについてどれくらいの量発言していたか、あるいは他の人の意見にどんな反応を示したか、といった情報を整理するような機能がすでに開発されています。他にも、室内にいる人たちが特定のイシューについて会話しているときに、各人がさまざまな論点についてどのような感情を抱いているのかを、声色などから自動的に分析して整理・可視化するようなツールもすでにつくられています。また、近年ではスマートウォッチなどのデバイスの進歩によって、人々の血圧やホルモンの状態、表情の変化などをデータとして取得・解析することも容易になりつつあります。こうした半分意識され半分意識されていないような言動を、あらゆるセンサーを通じてデータ化して蓄積することは、技術的に可能になりつつあるのみならず、部分的にはすでに実行に移されています。

このようにして蓄積されたデータは、さまざまなイシューに関して人々が抱いている、感情や意見についての豊富な情報を含んでいると考えられます。こうしたデータは、選挙における投票データと並んで、民意を拾い上げるために大いに役立つはずです。チャンネルの多様化が進めば、個々人がそれぞれのイシューに対して発揮しうる影響力を、各イシューへの各人の関与度や専門性の高さに応じて傾斜配分することで、より実効的な立法や政策立案につなげていく、といったことも可能になるでしょう。現在1人1票といったかたちで粗く担保されている平等性を、より細かく、かつ有意義なかたちで実装することもできるようになると考えられるわけです。

さらに、こうして収集された民意データは、我々がどのような目的関数、つまり価値判断の基準を持っているかに関するデータをも含んでいます。ということは、こうしたデータから政策課題ごとの目的関数のようなものを抽出することも、それを最適化する政策や制度設計を発見することも可能なはずです。こうしたアイデアは、現在すでにある技術の延長線上で十分実現可能な話でもありますし、現に多くのWebサービスなどでは、こうした調整メカニズムのようなものがたえず走りつづけています。

そして、多様な入力データに基づく最適解の汲み上げが可能になってくれば、結果の出力=実行も、政党や政治家といった主体を経由する必要はなくなっていくでしょう。たとえば、実務者・執行者としての政治家という側面はコードやソフトウェアに委ね、一方でマスコットやアイドル、あるいはサンドバッグとしての政治家の役割は、動物や仮想のキャラクター、今でいうところのVTuberのような存在に負わせてしまう、といったかたちが考えられます。今の政治家の一番大きな役割の一つは、ある種のキャラクターと愛嬌を提供して一時的な熱狂を市民から引き受け、何か問題が起きたときにサンドバッグとして袋叩きにされることと言っても過言ではないように思いますが、そういった役割を果たす存在が今後も必要でありつづけるとしても、その役割を特定の個人が負う必要は必ずしもないはずです。

このように、データとアルゴリズムを中枢に据えることによって、もはや限界を迎えつつある民主主義のアップデートをはかっていける可能性があると考えています。

民主主義の改革については、広く共有されている思い込みがあると思います。つまり、民主主義の基本型とは選挙や政党・政治家に基づく民主主義であり、あらゆる改革はそれを前提とした調整・改良でなければならない、という前提を私たちは自明視しがちです。しかし、歴史を振り返ってみても、民主主義という理念の解釈や具体的なしくみへの落とし込み方は、この数千年間たえず移り変わりつづけています。古代アテネで使われていた民主主義の実装と現代のそれとで、形やしくみの面で共通している部分はほとんどありません。

そうだとすれば、民主主義という理念の新たな実現方法を、さまざまな手法を実験して模索していくステージが、これからもう一度訪れてもいいのではないでしょうか。ゲーテの『ファウスト』に「生じるものは全て滅びるに値する」といった一節がありますが、これは選挙制度や政党・政治家のようなものについても言える話ではないでしょうか。

政治にまつわる議論においては「選挙に行こう」「政治参加だ」といったことがもっぱら言われ、「若者が選挙に行くことで新陳代謝が促される」といったことがまことしやかに語られます。ですが、現実問題として、若者が選挙に行ったくらいではもはや選挙の結果や政治のあり方が変わりえないくらいの状態に、現代の日本は入り込みつつあります。政治を変えるということについて本格的に考えるのであれば、もっと基本的なレベルにおける変革の可能性を追究するほかないし、そうした変革を可能にする技術的な環境は整いつつあるはずです。そうした現状を踏まえて、何がなすべきか考えていく必要があると、私は考えています。