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22世紀の民主主義

キーノートスピーカー
成田悠輔(経済学者)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、西川伸一、茂木健一郎、山口周、山崎元

茂木 先ほどとは別の質問なんですが、成田さんはあの「民主主義の呪い」の根本原因を、端的にどのようなものだとお考えなんでしょうか。一つの予想として、権威主義的な体制と全体主義的なコンピュテーションの相性のよさというのはあるとは思っているんです。つまり、国中に監視カメラやマイクやセンサーを設置して、収集したデータをもとに全体的な最適化をはかる、といったことが、民主主義国ではプライバシー権等々の問題で実現しにくいですよね。それが権威主義体制だと比較的容易で、だからこそAIや情報ネットワークを用いて最適化した政策立案・実行みたいなことがやりやすいんじゃないかとは思うんです。この点に関して、成田さんはどうお考えですか。

成田 おっしゃるとおり、権威主義体制のほうが全体的な最適化などを実現しやすいというのは一つあると思います。もう一つは、コインの裏表みたいな話ですが、個人が受け取る情報やコミュニケーションの質や量を、権威主義体制のほうが制限しやすいことは関係している気がします。良くも悪くもSNS革命みたいなものは、本質的には自由主義側の社会でしか起きていないわけですよね。

茂木 ゲーム理論的にも、自由主義的な、つまり言論の自由があるプラットフォームのほうが、権威主義的なプラットフォームよりハックしやすいんですよね。最近読んだ論文でも、Facebookは意外とエコーチェンバー現象が起こりやすいアルゴリズムになっている、といった指摘がなされていました。言論の自由というのは、一見いいことのように思えて、実はそれなりの脆弱性をはらんでもいるんでしょう。「中国のような統制の厳しい体制下では、経済が情報化しても十分な自由競争が行われないからどこかで成長が頭打ちになるはずだ」といったよくなされていた議論があって、今でもそういう主張をしている人はいるんですが、かといって自由主義にデメリットがないかと言えば、別にそんなことはないわけですよね。

成田 そうですね。だから「自由民主主義がここ二十数年まずい状態にある」といった話をすると、それなら中国みたいな体勢に移行すればいい、という方向に流れがちなんですが、それはそれでたぶん違うんですよね。体制のトップが倒れたり狂ったりしたらそれまで、といった可能性も大いにありますし。

茂木 特定の権威に依存する体制の脆弱性もあるわけですよね。

島田 それでいうと、中国の人たちって、根本的にはまったく国家を信じていないんじゃないかと私は思います。

実は、成田さんが今日お話しされていた海上国家みたいなものについて、前に小説で書いたことがあるんです。『浮く女、沈む男』という、中国人の実業家の男が豪華客船を買収して、そこに中国からの亡命国家みたいなものをつくってしまう話なんですが、その発想の背景には、中国人の国家に対する根本的な信頼のなさみたいなものがあります。中国は帝国ないし専制国家として国民を相当抑圧していて、それを中国人たちはある種の諦めをもって受け入れているわけですが、根本的にはまったく国家を信じていないんですよね。CCTVに自分たちのあらゆる行動が映っていても、別にやましいことはないから、と諦めているけれど、かといって国家を信頼しているかといえばまったくそんなことはないわけです。その点において、中国人は世界一の人々ではないかとさえ思います。だからこそ、世界中にチャイナタウンがあるし、習近平自身も、外国に家族を留学させたり資産を逃がしたりして、ある種の保険をかけているわけですよね。

ひるがえって、民主主義に対する不信感というのも、日本にいるとなかなかピンときづらいですが、世界的にはなかなか広く行き渡っているところがあるように思います。民主主義の輸出国といえばアメリカ、といった認知が日本人含めごく一部の人々のあいだでは共有されていますが、他の国にしてみればそんなことはないわけですよね。むしろ、アメリカといえば、中南米で独自に成立しかけている民主主義国家なんかを潰しにかかる帝国主義国に他ならないわけで、そういう意味からしても「民主主義なんてクソ食らえ」みたいな思いがベースになっている人たちは世界中にたくさんいるだろうと思います。

山崎 成田さんとしては、日本はどれくらい民主主義的あるいは資本主義的と感じておられるんでしょうか。

というのも、最近も首相が「新しい資本主義」なんてことを言い出したりしていて、なるほど日本は資本主義なのか、とつい錯覚しそうになりますが、おそらく日本が立脚しているのは、実際には資本主義じゃないと思うんですね。たしかに、たとえばUberEatsの配達員をやって生計を立てているような人たちは、取り替え可能な商品化された労働力と化していて、強度に資本主義的だと言えます。ただ他方で、社会を上層で動かしているのは、2世・3世の政治家に象徴されるような、縁故でそこに入り込んだ人たちばかりです。優秀な人がきちんと報われるような、能力主義的な資本主義にはまったくなっていません。そういう縁故主義的で流動性の低い体制の上に、擬似的な独裁者としてアメリカが位置づいているのが、戦後以来の日本のあり方だというのが私の理解です。

たしかに、かたちとして一応選挙はあるし、政権も変わりうるしくみも維持されています。それは「我々はアメリカに愛されているんだ」ということが権威の源泉になっているからです。しかし、アメリカにぶら下がっているかたち自体を変えることはおそらくできないでしょう。ゆるやかな専制主義のもと、政治や経済のいわば上半分が縁故主義で凝り固まっているなかでは、ピーター・ティールみたいな人も現れなければ、イーロン・マスクみたいな人がTwitterをさっと買収してしまうようなことも起こりません。むしろ、若い実業家がテレビ局の買収に乗り出すようなことがあれば、社会全体で潰しにかかるわけですよね。

成田さんは日本の現状を、資本主義的あるいは民主主義的であるかないかといった観点からは、どういうふうに整理されているんでしょうか。

成田 難しいですよね。先ほどもいくつか全世界を対象にした図表などをお見せしましたが、日本ってだいたいああいうマッピングの中でも変な位置にくる場合が多いんですよ。

民主主義について言えば、形式的な制度の面はいろいろ整っている一方、スピリットや姿勢のレベルではすごく希薄で脆弱な国だと思います。それと関わって、人権みたいな概念も日本はものすごく弱いと感じます。おそらくそれは、「民主主義」「自由」「人権」といったものを、自分たちで戦って勝ち取ったわけではなく、明治と戦後によくわからないかたちで無理やり輸入させられて導入したことと関わっているんでしょう。だから、本質的にそういった概念を信じていない、それが重要だということを身体的なレベルで信じているわけではない社会なんじゃないかという気はします。ただ、それがかえってうまく作用していた時期もあると思うので、一概に良し悪しを語れないところはありますね。

山崎 世間の空気を読んで同調圧力のもとに動くというのは、ある意味では無意識を織り込んだデータ民主主義的なシステムかもしれないですね。

成田 あとは、少なくとも今現在に関していえば、隷属することを好む社会になっている感じがします。政治的な側面にせよ経済的な側面にせよ、巨大な反乱どころか、デモさえほぼまったく起きないわけじゃないですか。

波頭 このフォーラムのメンバーでもある歴史家の磯田道史さんが、いかに日本人が支配されるのが好きな国民性かが歴史を振り返るとよくわかる、とおっしゃっています。支配してくれる人が天から降ってくるのを、みんなでポカンと口を開けて待っている。それが日本人のネイチャーだと。だから「自由を与えてやるから、それを守って近代市民として生きていけ」と言われても、ほとんどの人はありがたみを感じないみたいなんですよね。

島田 世界が近代を経て前近代化に回帰しつつあるなか、日本は昔から今に至るまで江戸時代のまま、ということだったりするのかもしれません。

波頭 成田さんは今、海外でもお仕事をなさっていますよね。日本との違いはやはり感じておられますか。同調圧力ということが問題にすらならない、むしろ同調圧力に取り込まれているほうが心地いいとさえ感じる人が多くを占めていそうな日本と比べて、海外はどんな雰囲気なんでしょうか。

成田 一応私は今、アメリカのWASPエスタブリッシュメントの中心とも言えるような大学にいるんですが、彼らは本音のところでは、たとえばダウンタウンにいるゲットー黒人を、同じ人間だとまったく思っていないんですね。アメリカだけでなく、イギリスやフランスにしても、同じようなところは少なからずある気がします。

日本はその点、どこの誰であっても同じ「日本人」としてギリギリ括れる同一性が、社会の中に一応存在しています。少なくとも、種の違いくらいのレベルで捉えられている階級差のようなものはないと言っていいでしょう。それはおそらく、単一民族国家というフィクションを一応信じられるくらいには、たまたまこの国が同質的であることによるものだと思います。「日本人」と呼ばれるマジョリティに相当の分厚さがあって、マイノリティグループをマジョリティが黙殺しても量的に問題ならないという意味で、マイノリティが本当にマイノリティである。そういう社会であることが、同一性への信仰を可能にしているんだと思います。

そしてそれはたぶん、この国が島国であること、そして東アジアという、たまたま数千年にわたって国境が本質的に変わらないすごく特殊な場所に立地していることと、少なからず関係があるのかなと思います。いろんな人種が陸地を伝って入り混じって、戦争をするたびに国境がつねに変わるような国々とは、文化が違ってくるのは当然と言ってもいいでしょう。

ただ、それがいい方向に働いている部分もたぶんあるわけですよね。治安や衛生がつねに一定レベル以上に保たれて、公衆トイレみたいなものがきちんと機能するのは、日本社会の特殊性が前提になっているからで、それはたぶん同一性の弊害と裏表をなす話なのだろうと思います。