山口 今日のお話では、非民主主義的な体制に比べて民主主義体制のパフォーマンスが悪くなっているということで、エビデンスとして大きく2つの指標、すなわちGDPはじめ経済に関するものと、コロナ禍におけるマネジメントの成否に関するものを挙げておられました。これら以外の指標で、民主主義のパフォーマンスの悪さを裏づけるものは、今のところ見つかっていたりするんでしょうか。
成田 今はHappinessおよびWell-being周りの指標、それから経済格差周りの指標、あとは健康寿命みたいな公衆衛生・健康指標のうちコロナ禍特有ではないものなどについて、順番に分析を行っているところです。民主主義との負の相関関係をはっきり示すものは見つかっていませんが、その逆を示すようなものも特段見つかっていない、という感じですね。
山口 ありがとうございます。もう1つ別にお尋ねしたいのが、時間軸を長く取ったときの問題についてです。たとえば、ナチスはドイツで1932年に政権を取ったわけですが、その後5年で、もともと20%近くあった失業率をほぼ1%まで下げることに成功しています。つまり、10年や20年の単位で見ると、ある限られた指標に関して非民主主義国がものすごいパフォーマンスを叩き出したケースというのは、歴史上いろいろと散見されますよね。ただ、長い目で見ると結局は民主主義が好成績だった、という話もあるように思うんです。実際のところ、一人当たりGDPで最上位を占めているのも、ほとんどは民主主義国家です。そうすると、ここ20年弱のあいだに何かが起こったとして、それが単なる誤差のようなものなのか、あるいは何かしらのメカニズムのはっきりした転換を示すものなのかは、大きな議論のポイントになると思うんです。この点はいかがですか。
成田 たしかに、20世紀までの数百年間を見ると、民主的なしくみとだいたいの物事のアウトカムとのあいだには、基本的に正の相関が認められます。長期の経済成長に対する影響も、あるいは乳幼児死亡率等に対する影響も、基本的にはポジティブです。反面、民主主義が危機の局面においてすごく弱いという点も、昔から指摘されています。戦争や疫病、あるいは金融危機みたいなものが起きたときに迅速に対処できるかどうかで言うと、やはり特定の意思決定者がいるシステムのほうが強いですよね。
今世紀に入ってから本質的に何かが変わったのかという問題については、変わっているものがあるとすれば、やはり個々の市民の脳内環境なんじゃないかと思っています。民主主義的なしくみが個々の市民の脳内環境をベースにして動いているとの前提に立てば、その脳内環境がここ20年ほどで劇的に変わってしまったことのインパクトは大きいだろうと思います。
少し前に出席したカンファレンスで、ローレンス・レッシグという法学者の方から興味深い話を聞いたんですが、彼はそこで、アメリカをはじめとする民主主義国について、有権者の置かれてきた情報環境やリテラシー環境の変遷を時系列的に整理していました。つまり、19世紀の時点では、普通選挙的なものが導入されて相当の割合の人々が投票権を持つようにはなったけれども、ほとんどの人が読み書き能力もメディアへのアクセスも持たなかったために自身で投票行動を決定することができず、周りの人や家族と同じようなことをしておくという振る舞いがデフォルトになっていたと。したがって、実質的な決定権を握っていたのは、ごく少数の読み書きができるエリート層だったわけですね。それが20世紀になると、義務教育の普及によって読み解きのできる人が激増し、マスメディアも登場したことで、投票権を実質的に行使できる人が劇的に増えました。ただ、当時は誰もが同じメディアにふれて、同じような情報をもとに判断を下していたので、政治的な安定が保たれていたというわけです。
そして、これが初めて変わったのが今世紀だったと言うんですね。つまり、人口のほとんどが読み書き可能になって、それぞれ意見を持つようにもなったけれども、見ている世界が人によってまったく違うために、その人たちの間でコミュニケーションが成立しなくなってしまった。そして、その人たちをうまく一つに統合するような安定したメディアみたいなものも、もはや成立しえなくなった。要は、普通選挙制に立脚していながら、投票者それぞれが置かれているメディア環境・情報環境・コミュニケーション環境が人によってまったく違うという状況が、21世紀に入って初めて生まれてしまったというわけです。これはすごく本質的な変化である可能性が高いと話していて、なるほどと思いました。
波頭 まったく賛成です。それで言うと、社会の権力構造のドラスティックな変化の最初のきっかけになったのは活版印刷ですよね。その次に、今まさにおっしゃったように、義務教育によって誰もが読み書きできるようになった。それが今度はインターネットの登場で、誰もが情報の受信だけでなく発信までできるようになったことによって、それまで社会的に共有されていた、普遍性の高い「正しいこと」が解体されましたよね。民主主義的なメディア環境・情報環境が成立したことで、かえって民主主義の健全性が汚れたんだろうと思います。
成田 その意味で、出版や教育、マスメディア革命と同じくらい強烈なインパクトを、インターネットが持ってしまった可能性はあるように思います。
それと関連する、民主主義とまったく別の文脈にまつわる論点として、インターネットが産業革命をつくり出しているかどうかという問題があります。つまり、コンピューター産業とインターネット産業は第5次産業革命になるともともと期待されていたわけですが、実際見てみると、そういうことになってはまったくなっていないんですよね。第1次・第2次産業革命時のように総生産量や生産性が目に見えて上がっていくみたいなことは、ここ数十年まったく起きていません。
特にそれが顕著になったのが、インターネットが普及した2000年代以降です。コンピューターの普及のほうは少なからず生産性の伸びと連動していましたが、インターネットのほうはまったく連動していないらしいんですよね。
波頭 その点に関しては、疑義と言うほどではないですが、別の見方をしています。つまり、インターネットが生み出してきたバリューが、GDPの対象にならない類のものである可能性はありますよね。たとえば、今は昔と比べて、多くの人がスマートフォンでゲームをするようになっています。そこからGDPに加算されるのはゲームの売上だけですが、GNHやポジティブな感情の上昇度といった指標を変数として採用したら、明らかに何かが増えているとは言えますよね。
成田 増えすぎている可能性はありますね(笑)
波頭 そうかもしれない(笑)いずれにせよ、GDPに寄与する類のものに投入する時間やエネルギーが、別の何かに振り向けられることで減っている可能性は高いんじゃないかと思います。
成田 それはたぶん間違いないですね。アメリカでリーマンショックをきっかけに若年の男性が大量に失業しましたが、その多くが今になっても再就職していないらしいんですよ。その理由をいろいろ調べてみると、やっぱりゲームやってるっぽい、と(笑)要は、誰でもほぼ無料でできるゲームのクオリティがあまりにも高いから、実家に寄生しながら月5000ドルないし1万ドル程度の出費で生活してゲームで延々と遊んでいるほうが、下手に働くよりよほど幸福度が高いわけですよね。
西川 それで言うと、インターネットがものすごくポジティブに作用したのがサイエンスの領域だと思います。もともとサイエンス自体が手続きとして、民主主義とは異なるコンセンサスの取り方を持っているので、インターネットが捏造を暴いてくれたり多様な考え方の流通を促進してくれたりと、ポジティブに働いた面は大いにあると感じています。楽観的に考えすぎかもしれませんが、前向きに評価できるところはものすごくあったと僕は思っています。
波頭 そこは間違いなくポジティブに捉えられると思います。要は、編み出されてから100年も経っていないGDPという指標では拾いきれない価値が、あちこちに転がっているんですよね。物事の合理性を問うとき、いまだに経済合理性を念頭におくことが自明の前提にされてしまいがちですが、できるだけ早くGDPから脱却して、次のステージに進む必要があると思います。それを実現できるポテンシャルも、インターネットの発明と普及によってすでに得られているように思います。
山口 それで言うと、成田先生が今回のスピーチで提案されたしくみ自体が、GDPという効果関数自体の評価を、民意を反映して下げることになる可能性もありそうですね。
成田 多数ある評価軸の一つにすぎないものになる可能性は、大いにあると思います。
(文責:山口 真幸)