高橋 社会学者の岸政彦さんの著書『断片的なものの社会学』(朝日出版社)が非常に面白かったので、ゼミで学生たちに読んでもらいました。冒頭、岸さんが沖縄で、現地の方にインタビューをしたときのエピソードが紹介されています。
ある男性にインタビューをしている最中に、庭の方から「お父さん、犬が死んでるよ」という子どもの声が聞こえました。男性は数秒の沈黙ののち、一瞬だけ中断したインタビューを再び受けます。
社会学者は通常、フィールドワークでインタビューを積み重ねて、そこから真実を見つけ出します。ところが、前述の子どもの声が聞こえた瞬間、社会学的な真実は消えてしまった。インタビューを受けている男性にとっては、社会学者のインタビューそのものよりも、犬が死んでしまったことのほうが真実なのです。しかし、本書にこのエピソードを入れた理由を、岸さんは詳しく書いていません。あくまで断片的なエピソードとして記述しています。
私たちは普段、断片的なものを解釈して、そこに意味を見出そうと試みます。それに対して岸さんは、「断片でいい。これ以上何も解釈しなくていい」という手法を取りました。
学生たちは大学で、「これについて分析しなさい」「これについてどう思うか述べなさい」というタスクを与えられています。「断片でいい、これ以上何も解釈しなくていい、意味付けをしない」という考え方に触れた学生たちは、とても面白がっていました。困ったことに、学生たちは『断片的なものの社会学』を読んでから、「ほかの授業が面白くなくなった」と言い出しました(笑)。
断片というのは、解釈できないから断片であり、解釈していくと断片ではなくなります。意味が生まれる寸前に止める。そうすることで別の何かが浮かび上がってくるのです。
考えてみると岸さんの試みは、文学の手法そのものです。文学では、ストーリーを語ること以外にも、意味を遮断して断片を語る方法もあります。あるエピソードがあって、どんな意味も付与しないというのは、文学を含めた芸術手法の一つです。
私たち小説家にとって、岸さんの手法はとても共感できます。小説家が取材中に犬が死んだという出来事に遭遇すれば、本来のテーマよりむしろそちらのほうが面白いと感じるのは自然です。文学に近い感覚で書かれた本だと思いながら、岸さんの本を読みました。
世にある研究や仕事の大半は、断片を解釈して、そこに意味を見つけようとします。それはいわば「正規」の思考といっていいでしょう。一方で、「断片のままでいい。解釈しなくていい」というのは「非正規」の思考です。日常生活のなかで、私たちは「正規」の思考に縛られがちです。そこから抜け出すには、断片的な「非正規」の思考が必要になってくると思います。
「正規」「非正規」の思考というと、私がある大学院生の指導をしたときのことを思い出します。彼の研究テーマについて、二人で話し合っていたときのことです。彼は、生まれて間もない赤ん坊のころにキリスト教の洗礼を受けて、キリスト教徒になった。その過去がずっと気になっていると話してくれました。そこで研究テーマを「幼児洗礼」に決めて、彼と共に研究を始めました。私は唯物論者で無神論者ですが、研究を始めてみると非常に面白く、私のほうが夢中になってしまった(笑)。
幼児洗礼とは、文字通り幼少期に受ける洗礼のことですが、その是非について、一九五〇年代に大論争が起こりました。論争を行なったのは二十世紀最大の神学者カール・バルトと、同じく神学者のオスカー・クルマンで、バルト・クルマン論争と呼ばれています。
バルトは「幼児洗礼はキリスト教につけられた『汚点』である」と喝破しました。信仰というものは、神と人間との実存的な一対一の契約であり、意思をもたず判断できない赤ん坊に洗礼という強制を行なうのは信仰ではない。論理的に矛盾しないバルトの主張に、反論する者はほとんどいませんでした。
ところが、クルマンだけはバルトに異を唱えたのです。クルマンはバルトの発言の真摯さを認めつつ、こう言いました。「幼児洗礼は、神からの愛の純粋贈与だ。信仰とは本来、神が人間に一方的に恩寵を与えることから始まるものであり、それは見返りを期待する行為ではない」。平たくいえば、幼児洗礼は神からの無条件の贈与であり、拒否することも、無視することも可能である。しかし子どもたちはまず愛されたのだから、素直に洗礼を受ければよいというのです。
たしかに、「主体的な個人」と「神」との一対一の契約というバルトの信仰の論理は、明快でわかりやすいものです。しかし、クルマンは、その論理には致命的な欠陥があると指摘した。社会通念から見ると、バルトの論理が「正規」であり、クルマンの論理は「非正規」ですね。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に書かれているように、典型的なキリスト教派であるプロテスタンティズムと資本主義は、もともと親和性が非常に高いのです。
資本主義では、労働者が労働力を提供する代わりに工場主が恩寵を与えます。これは、一対一の契約に基づく等価交換です。この資本主義的な考え方に沿ったバルトの論理に対して、クルマンの主張は、働かなくても工場主がお金をくれるという非論理的なもの。「そんな甘い話があるはずがない」と、等価交換つまり商品経済の論理で生きている人間は考えるでしょう。
このようにクルマンの主張は社会通念から逸脱したものですが、じつはキリスト教は本来、地上の原理から懸け離れたところから始まっています。イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で人類の罪を背負って処刑されました。自分の罪を自分が背負うのであれば、一対一の等価関係がありますが、全人類の罪をキリスト一人が背負って死ぬのは、どう考えても等価関係の原理にそぐわない。しかしキリスト教は、神が永遠に恩寵を与えたり、すべての罪を背負って死んでくれる人がいるといった「非対称」の世界で成立しています。現世で生きる人びとは初めて理解できない論理に触れ、「こんな世界があるのか」と、衝撃を受けます。そしてキリストの死後、それまでキリストを無視してきた人びとが次々と入信していくのです。
経済活動では一対一の等価交換が基本ですが、宗教的な観点では非対称でも辻褄が合っています。クルマンは、信仰というのは、通常の社会的な通念の上に働くものではないとし、バルトのいう宗教は「堕落した宗教だ」と考えました。バルト・クルマン論争の結末については、よく知りませんが、バルトの著作を読むと、彼はクルマンに「負けた」と思っていたようです。