和田 私は、本業が何かよくわからない、いいかげんなフリーターの精神科医という印象が強いかもしれませんが、主に勉強している分野は二つあります。もちろんそれは職業柄ということですが、一つは精神分析医ということがありまして、これに関しては一九九一年から九四年までアメリカに留学したり、今でも三カ月に一遍ずつロサンゼルスに勉強に行ったりしています。だいたい勉強している分野については本が売れないものだという実感がありまして、精神分析の本は一所懸命書いていても売れません。
もう一つ一所懸命勉強していていまいち本が売れない分野として、高齢医療、老人医療があります。市場原理に基づいて考えると、競争相手が少ないほど市場価値は高まるものですが、私の本業は老人専門の精神科医です。老人専門の精神科医というのは、いちおう老年精神医学会というものがありますが、ほとんどが認知症のいわゆる基礎研究をやっていまして、茂木先生もそうなのかもしれませんが脳の研究者です。ですから、アルツハイマーでどのような変成が起こるかとか、分子生物化学レベルの研究をする人はたくさんいますが、高齢者の臨床、特に精神科臨床をやる先生は十人いるかいないかです。
六十五歳以上の人口の五%がうつ病の診断基準に当てはまりますから、二千六百万人弱いる六十五歳以上の五%というと約百三十万人のうつの高齢者がいます。ところが、ちゃんとした老人専門の精神科医という人は十人かそこらしかいない、という状態です。ですから、そういう意味では、僕らみたいな人間でも、言いたいことやほかの人が知らないことは話せることになります。
(1)浴風会病院
そのバックグラウンドとして、自分のキャリアの中で人様に対して一番自慢できるというか、僕は人と違う特別なキャリアを持っていると言えるのは、浴風会病院に勤務していたことです。この建物そのものもいまだに残っている大正建築です。東大の安田講堂のまねだという話もありますが、関東大震災で子どもが亡くなってしまったお年寄りの救護施設として、皇后陛下の御下賜金をもとにつくられた日本最初の公的な老人ホームです。そういう意味では、この病院は日本の老人福祉の幕開けの地でもあります。
この浴風会という老人ホーム(養老院)をつくるにあたって、当時、東京帝国大学の内科の稲田教授は、あとで調べてみると、ある意味で世界的にもすごく先見性があって、せっかくこういう立派な公的な養老院をつくるのだったら、ここを日本の老年医学の研究のメッカにしようと考えました。そして、今と比べればまだはるかに権威があった大正時代の東京帝国大学の医者を四人を、今でもなり手がない老人ホームの医者につけたわけです。
この老人ホームに入った人は毎年定期検診を受けますし、亡くなったときは(病院で亡くなるわけですが)、身よりがないというメリットもあって必ず解剖させていただきます。医者として自分の診断が合っているか合っていないかを知る一番正しい方法は、やはり剖検、亡くなったあとに解剖をすることですから、こうして種明かしと答えが出るわけです。
しかし、今の大学病院のシステムではそれがほぼできません。なぜできないかというと、家族が剖検に協力してくれないということもありますが、死ぬまで病院に置くという当たり前のことが現時点ではできなくて、二週間以内に追い出さないと保険の点数を切り下げられてしまうのです。ですから、特に認知症の患者さんについて、その人が本当に認知症なのか、うつ病なのか、それともぼけているように見えるだけなのかということは、脳を切ってみなければわからないのですが、亡くなるまで置いておけなければその答えが出るわけはありません。
だから、いまだに日本には、脳血管性の認知症が多くてアルツハイマーは少ないなどというばかげたことを言い続けている人もいるわけです。諸外国のデータによれば認知症の九割はアルツハイマーだと言われているのに、日本だけは、脳血管性の認知症が三分の二で、アルツハイマーは三分の一だなどと言っています。解剖をすれば、少なくとも脳梗塞だけが理由でぼけることは極めて少なくて、脳梗塞ももちろんあるけれども、頭の表面にはアルツハイマーがあるというようなことがわかります。
もう一つ、これから順番に説明していくことですが、この老人ホームでは毎年健康診断をしていますから、例えば血圧の高い人と低い人とを比べて生存曲線がどうなっているのかとか、タバコを吸う人と吸わない人とを比べて生存曲線がどうなっているのか、あるいは、血糖値が高い人と低い人とを比べると生存曲線がどうなっているのか、データで全部出るわけです。横断研究はわりあいしやすいものですが、老年医学として縦断研究というか長い年月を追いかけていく研究ができるというメリットがあるわけです。
もう一つ、高齢者にはものすごく大きな個人差があります。例えば七十代の人を考えたときに、高倉健さん、菅原文太さんなど、多くの七十代の人がとても元気で若々しいのに、もう一方では本当によぼよぼした人もたくさんいます。高齢者というのは基本的に個人差が大きいわけですから、たくさん診るに越したことはありません。
大学病院の老人科と称するところはどこでも、ベッドが三十から四十ぐらいしかありません。しかも、大学病院に通ってこられて、いろいろな検査を受けられるような人しか診ないことになります。私が東大病院の老人科で研修医をやっていたときは、入院患者の平均年齢は七十三歳ぐらい、そして東大病院全体の入院患者の平均年齢が六十九歳でした。どこが違うんだという話です。浴風会にいたときは入院患者の平均年齢は八十四歳ぐらいでしたから、本当の意味で高齢者がどのようなことになるのかということがわかるわけです。
この病院は、たまたま私が在任中に診療部長から副院長になられた竹中星郎先生が精神科の医者でしたので、内科と精神科の連携がとてもよかったということも含めて、とても勉強になる施設でした。