(1)日本の大学病院の非生産性
さて、今の医学教育のシステムではこのような高齢社会に対応できない、という話をしたいと思います。大学の医局制度では、関連病院に医師を派遣するのも、研究指導をするのも、治療方針を決めるのも、全部教授が一手に担うというシステムになっています。研究治療、教育もそうですね。だから、例えば精神科の場合だと、教授が生物学的精神医学の人であれば、研究も全部生物学的精神医学になるし、授業も全部そうなってしまって、カウンセリングを一秒も習ったことがないヤツが精神科医になってしまうということです。
日本の大学病院は非生産的です。まず臨床面についていうと、臨床軽視で過度な専門志向になってしまうということがあります。論文の数で教授が決まるわけですから、臨床を一所懸命やるよりは論文をたくさん書いていたほうがいいわけですね。また、大学病院は症例不足です。日本中には大学病院が八十もあります。例えばお茶の水駅の南側には日大病院があります。そのちょっと北側には東京医科歯科大学の病院があります。その隣に順天堂大学の病院があって、そこから一キロ上に東大病院があって、そこから一キロ上に日本医大の病院があるんですね。それらの病院には全部脳外科もあれば心臓外科もあるわけですから、症例数が足りるわけがありません。そういう意味で、ろくに手術の経験がないヤツを養成する機関になっているわけです。
それについてはあとでもう少し説明しますが、臨床が軽視されていて、専門志向で、狭い分野しか診ない。消化器内科の教授が肝臓の専門家であれば、消化器内科に行っても肝臓しか診てもらえず、内視鏡がのぞける医者が一人もいない消化器内科というものがあるなどというめちゃくちゃなことが起きてしまいます。
研究面では、研究費が慢性的に不足しています。医局というのは、国が研究費を認めてくれていないので、薬屋に頼んで知験をするしか予算を得る方法がありません。しかし、例えば理化学研究所であれば、ディレクタークラスになると年間一億円ぐらいの研究費は使えますから、研究所で研究をしたほうがいいに決まっています。僕が信じられないのは、理化学研究所のディレクタークラスの人間でも、東大教授の教授選で通ったら東大医学部に行っちゃうんですね。彼らは研究をしたいのではなくて、地位を得たいのだろう、としか思えません。年間研究費が十分の一になってもいいということですから。
そして、研究室は細分化していて、慢性的なスタッフ不足です。例えば東大第一内科を例にとると、助手の数は三十人なのに研究室が四十個もあります。だから正規職員が一人もいない研究室があるわけです。そんなことでいいのかという話ですね。
教育面については、教育軽視です。また教育専門スタッフがいません。教育で教授が選ばれることはありません。最近になってたまに手術のうまい人が外科の教授になることがありますが、教え方がうまい人間が医学部の教授になることはまずありません。教育はとても軽視されています。
そして非近代的な教育メソッドです。アメリカと違って標準治療を教えてくれませんから、大学によって治療方針が違うというめちゃくちゃなことが平気で起こっているわけです。いまだに、教えないで、盗んで覚えろ、などというわけのわからないことを言っているわけです。そんなことでは、レジデントの期間に医療ミスが起きても当たり前だと思います。そういう意味で、大学病院は、臨床面も、研究面も、教育面もすべて非効率的なのに、トップの教授がそれを全部握ってしまっているという状態があるわけです。
(2)研究重視の問題点
社会に老人が増えようが増えまいが、こんなシステムを続けていくこと自身がもともと異常だったと僕は思います。いずれにしても、論文の数で教授を決めるということは、臨床軽視だけでなく、教育面にも悪影響を及ぼしています。
僕が聞いた話で一番ふざけていると思ったのは、私が研修医のころの話です。ある患者さんが血を吐き始めました。研修医には必ず指導医がつくわけです。指導医は助手クラスの人ですが、まず病棟にはいません。なぜかというと研究室にこもって論文を書いているからです。論文の数が多ければ多いほど出世できるわけですから、そういうふうになるわけです。だから、だいたいが電話指示です。医者になって間もない人間に電話で指示をして指導するんですね。
僕は現場に居合わせなかったから嘘かもしれないけれども、みんなが言っていたからたぶん本当だと思います。マーロックスといって、どろどろの液があって、胃の血が出ている部分にその液をかぶせて血をとめるというものがあります。指導医は電話で「血を吐いた患者さんに対して、マーロックスを入れておけ」と指示をしたんですね。その研修医は点滴の中心動脈の管からマーロックスを入れて、その患者さんを殺してしまった。
そういう初歩的なミスは、現場に居合わせていたら起こるはずがないことです。しかし、論文の数で教授が決まるシステムだから、指導に行っていると論文の数が減ってしまいます。そういうことが起こるのが大学病院なんですね。だから、『ブラックジャックによろしく』で書かれていることは九九%本当のことです。
それから、日本には統一カリキュラムはいまだにありません。それもめちゃくちゃなことです。
最近は、国家試験の合格率が低いと補助金が減らされます。国立大学法人になってから余計そうなりましたから、試験対策ばかりやっているという状況もあります。
研究重視になると、臨床軽視になり、教育軽視になり、過度な専門分化が起きてしまうということがあります。肝臓の専門家に「僕は肝炎のウイルスの専門家だから、肝硬変のことはあまり知らないよ」というようなことを言われてしまうということが起こります。
(3)日本の大学医学はなぜもってきたか
それでは、日本の大学医学はなぜこれまでもってきたかというと、一つには、科学信仰の時代背景があります。研究を一所懸命やっていることは立派なことだと思われているし、ちょっとでもレベルの高い医療を受けたい、最新鋭の機械で最新の医療を受けたいという志向が日本人にある、ということがあります。
第二に、かつては今みたいにお金をけちれという話にはならなかったわけですね。高度医療をするために例えば十億円の機械を入れようとしたら、大学病院だったらいいでしょうという話でした。国民皆保険で、一割負担のころであればそれほど痛くもないですから、皆が大学病院に行ったわけです。
そして、日本という国は、昔は平均寿命が短くて、若年者が多かったんですね。これもよく例に出す話ですが、一九五〇年当時の日本人の平均年齢――平均寿命ではないですよ――が幾つだったかというかと、二十六歳です。それが二〇〇〇年に四十一歳になるんです。アメリカ合衆国は、一九五〇年当時は三十一歳でしたが、今は三十六歳です。日本ほど平均年齢がガッと上がった国はありません。昔はとにかく若い人がめちゃくちゃ多かったということですね。平均年齢二十六歳というのは、若い人がすごく多い人口分布だったということです。
医師の供給システムとしては大学病院しかないわけですから、皆がへいこら頭を下げていたわけですね。僕らがとある大学の医局設立十周年記念パーティに行ったら、近在の病院の院長たちが教授にぺこぺこ頭を下げる。それを学生に見せて、教授が威張っているわけです。
普通の大学の教授は、自分のスタッフが例えば波頭さんの会社に雇ってもらうとか、團さんの会社に雇ってもらうとなったら、普通は教授が「よろしくお願いします」と頭を下げます。医学部の教授だけは、俺たちが送ってやっているんだと偉そうな顔をしていて、「これからも送ってください」と送ってもらう側、雇う側が頭を下げるというシステムになっています。
(4)医局講座制と医療費コスト
医局講座制というシステムが医療費のコストを引き上げているという側面があります。薬物療法重視の傾向があるという点が一つあります。科学的な治療方針ということで、精神科の治療でも、心のケアみたいなことをするよりも、薬を使ったほうが科学的に見えるとか優位差が出るということです。
もう一つ、製薬会社との結びつきという面があります。これは黒い結びつきとは限りません。たまには清貧教授もいます。しかし、清貧教授であっても製薬会社と結びつかざるを得ないところがあります。なぜかというと、厚生労働省や文部科学省がほとんどの医局に研究費を出していないからです。たまに科研費を申請して通ることがありますが、それは一医局でたまに一つ通るぐらいもので、普通は医局の予算は知験をやって取るんです。知験とはどういうものかというと、動物実験をやってうまくいった薬を人間に使う試験ですね。その知験を一例百万円ぐらいで受けて、十例やってそれで一千万円もらい、それを医局の研究予算として使う、ということをやっています。
それは二つの面でまずいと思います。一つは、製薬会社に嫌われるような、薬を減らしたほうが長生きできるというような研究を出すと、知験が回ってこなくなるということが起こりやすいということです。製薬会社と仲のいい医局ほど潤沢な研究予算がある、という現状があるわけです。
もう一つは、アメリカの場合は、製薬会社がFDAに審査料を払って、FDAが各病院に知験を頼みます。日本には、アメリカのFDAのようなものがありません。製薬会社が知験を医局に直に頼むものだから、いいデータを書いてくれる医局のリストを製薬会社が持っていたりします。そのために、日本で認可された薬の八割はアメリカで認可されていない、というようなことが起こります。とにかく、金にそれほど汚くない、研究したいという教授であったとしても、製薬会社と結びつかなければ研究ができないわけです。
それから疫学研究が軽視されています。本来、この薬を飲んでいる人が五年後、十年後に生きているかどうかとか、こういう治療法をやったほうが長生きできているかどうかという研究がとても大事であって、それによって血圧や血糖値などのある検査データが下がったということは実はあまり意味がないんですね。
アメリカであれば保険会社がお金を出すものだから、この薬を飲んで検査データが下がったのはいいけれど、五年後心筋梗塞が減っているというデータを出さなければ、効いたとはみなさないと言うわけです。そうすると、疫学研究を一所懸命やって、この薬は確かに五年後の心筋梗塞を減らしたけれど、この薬は減らさなかったというデータが出て、減らすほうの薬を使いなさいという話になるんです。それをエビデンスベースドメディシンと言います。
しかし、日本の場合は疫学研究にドライブがかかりませんよね。エビデンスがあろうがなかろうが、保険が勝手に金を出しているわけですから。疫学研究は、五年間研究して一本しか論文が出ませんね。動物実験であれば、下手すれば二週間で論文がバカバカ出せるわけですから、疫学研究など誰もやりません。
医療費を下げる研究をしている医局に厚生労働省が金を出すというふうにすればそれで済むことですが、そういう研究をする医局はどこもありません。あとは、専門分化、高度医療ばかりを追求することになるわけです。専門分化が進めば進むほど、医療費は高くなることは決まっています。ましてや高齢者が増えて、一人で三つも四つも病気を抱えていたら、コストはすごくかかりますね。
大学というのは、各医局が医師を養成するシステムですから、総合診療医は養成できません。スーパー・ローテートというものが最近始まりましたが、呼吸器内科と循環器内科と消化器内科三つを回ったら総合診療医になれるかといったら、なれません。なぜかというと、呼吸器内科の薬の使い方と、循環器内科の薬の使い方と、消化器内科の薬の使い方を習ったら、めちゃくちゃたくさんの薬を使う医者になってしまうだけだからです。総合診療医というのは、そうではなしに、三つの病気を抱えている人間に、この薬を優先して使って、この薬はやめておこうという判断ができる人です。三つの専門を回ったからといって総合診療医にはなれません。総合診療医のトレーニングを受けなければなれません。アメリカにはファミリー・プラクティスという科があるし、イギリスにはジェネラル・プラクティスという科がありますが、日本にはそういう科がありません。
また、時代のニーズに追いつけない医師養成であるという点もありますが、これについてはあとで説明します。