西川 いま高橋さんのおっしゃったことは、私たち科学者も真剣に悩んでいることです。イグノア(無視)されたものをどうすくい取るか。一方で、二十一世紀はネットのおかげで、すべてのものがイグノアされずに済み、複雑性が拾えるのではないかという期待ももっています。
茂木 文学の断片性、寸止め性というお話がありましたけど、必ずしも文学イコール非科学主義、反科学主義とは言い切れないと思いました。複雑系の科学という視点から見ると、むしろ文学的な言語との親和性が高いのではないでしょうか。個別性を消す確率的な世界観というのが、現在の科学の正規的な見方ですが、一方で科学においても、カオス的遍歴など非正規的な見方はあります。
ところで、冒頭の話で学生たちが「犬が死んで聞き取りを中断したのが面白かった」という感想をもったようですが、いまの若者が見ているリアリティはどういうものですか。僕は安易な世代論は取りませんが、ほかの世代との違いはありますか?
高橋 私も世代論は取りませんが、われわれの世代とは違うという感覚はあります。われわれの世代はイデオロギーの刷り込みがあり、それを何かしらの形で通過してきた人が多い。われわれはイデオロギーというものに反対するにせよ、理解はできます。ところがいまの若い人たちは、そもそも強固なイデオロギーに触れたことがないから、理解もできないし、反発心ももっていないように思います。
言い換えると、イデオロギーに触れてきたわれわれの世代は、「大きな存在」は感じ取るけれども、繊細なものにはどちらかというと苦手意識がある。若い人たちは、「小さな存在」を感じ取る感受性は強いように思います。
波頭 私たちの世代は物事を評価するとき、まず「正しいかどうか」という軸で考えますよね。一方で若い人たちは、正しいかどうかという軸をあまり重視していなくて、「面白いか面白くないか」「快か不快か」などの感覚で受け止めていると感じます。人が生きていくための基軸が社会環境や社会構造を反映してシフトして来ているのだろうと思います。どちらがいいということではありませんが。世相と社会の複雑性に対応して、何か確たる機軸が必要とされて今後は正しさの軸が再び復活するか、それとも正しさという軸自体が多様性と複雑性の潮流に呑み込まれて消えていくか、どちらかに進むでしょうね。
山崎 正しさに抵抗して複雑さに立てこもるというのは良い戦略だと思いますが、作家の方は言葉で表現しますよね。言語というのは、ある程度の規則性と論理性をもっていますから、言語化する過程でいろいろなものを取りこぼしているんじゃないかと思います。そもそも、作家の方たちはどれほどの実感をもって、言葉を信じているのですか。
高橋 作家は、言葉が有効で有益だから使っているのではなく、言葉しかないからそれを使っているのだと思います。むろん言葉には限界があります。認識の限界であり、人間性の限界と換言してもいいかもしれない。言葉は雑駁で十全に表現できないものですが、だからこそ人間の素晴らしさや悲しさを表現できるのだと思います。
二十五年ほど前に統合失調症の人が書いた小説を読んだことがあるのですが、中身は文法も言葉も破壊されていました。これ以上破壊されていたらわからなくなるという、ギリギリのところで意味を読み取れました。
上杉 ジャーナリズムの手法と文学の手法を比較しながらお話をうかがいました。私は『ニューヨークタイムズ』で三年ほど勤務して、その後の十五年間は日本のジャーナリズムで活動しました。ウリツカヤの「論じない」という話を聞き、アメリカのジャーナリズムを思い出しました。ラインナップで表現したり、神の視点で書いてしまったりと、その手法が自由なんです。ところが日本のジャーナリズムでは、「正しいことを探せ」といわれます。政治的に右か左に立ち位置を置かなければいけないというのも窮屈ですね。
そもそも日本では、文学とジャーナリズムは峻別されますが、アメリカでは作家とジャーナリストの両方で活動している人もいます。両者の関係性について、高橋さんはどうご覧になっていますか。
高橋 じつは岸さんの本を読んで、ピュリッツァー賞を受賞したアメリカの作家スタッズ・ターケルの手法に似ていると思いました。ターケルの書物は膨大なページ数で、何百人ものインタビューを延々と載せている。最も象徴的なのが、消防士や売春婦など一一五の職業、一三三人のインタビューを掲載した『仕事(ワーキング)!』(晶文社)。本書を読むと、アメリカ人労働者の全体像がホログラムのように浮かび上がってきます。少数のインタビューだけだと、どうしてもバイアスがかかってしまいますが、これだけ多くのサンプルを集めれば、思想の偏りを軽減することができます。
いまの国内メディアは、資本主義と共産主義、自由主義と社会主義という冷戦時代の考え方を引きずっている気がします。私はそういう構図に巻き込まれるのが嫌なので、政治的なことはこれまであまり書いてきませんでした。
ところが、少し思うところがあって安倍政権の批判を書いたら、左派系の思想の持ち主だと勘違いをされて、憲法改正反対の集会に招かれたことがあります。その場で「憲法九条を変えてもいいんですよ」と発言したら、会場が凍りつきました。「高橋さんは安倍政権に反対しているから、憲法九条改正にも反対に違いない」とセットで考えられてしまったようです。私は憲法についてのスタンスがコロコロ変わっていますが、中途半端な発言をしてしまうと、「はっきりしろ」といわれます(笑)。