さらに深掘りして考えると、能動と受動の問題は、じつは「権力」と繫がっています。「暴力」と「権力」の違いについて考察したフランスの哲学者ミシェル・フーコーを参照しましょう。
暴力の場合、「殴る」のように、動作が主語の外で完結するので振るうほうは能動、受けるほうは受動と明確に分けられます。
では、力はどうでしょうか。フーコーは、権力とは「人に何かをさせる力」である、と考えました。権力を振るう側は明らかに能動ですが、権力を振るわれる側は、行為をさせられている、という点では受動であるものの、行為をしている点では能動です。つまり権力を振るわれる側は能動とも受動ともいえない状態で、ここに権力の概念の難しさがありました。
けれども中動態の概念を使うとこれをうまく説明できるようになります。それを説明するために、ちょっと変わった例に思われるかもしれませんが、カツアゲを例に取りましょう。
皆さん、カツアゲにあったことはありますか?私はじつは中学生のころにカツアゲにあったことがあるんです(笑)。こちら側は三人だったのですが、相手は高校生だったので脅されてしぶしぶお金を渡しました。
じつはカツアゲされてお金を手渡すという行為を説明するのはなかなか難しいんです。脅されているわけですから、能動的とはいえませんね。でも、たしかにポケットから自分の手でお金を出して渡している。その意味で受動的ともいえない。
しかし能動態と中動態の対立で考えれば、これをうまく位置付けられます。カツアゲしているほうは能動態です。
その高校生の行為は彼の外、つまり僕らで完結している。それに対し、それによって行為をさせられている中学生だった私は中動態です。私が行為の場になっているからです。これが、能動態と中動態の対立で考えると権力をうまく位置付けられるといったことの意味です。
僕はカツアゲされている際の在り様を、「非自発的同意」という言葉で説明してみました。自発的にお金を渡したわけではありません。しかし、お金を出せという要求には同意している。
よく考えると日常には非自発的同意があふれています。「子どもが泣きわめくので仕方なくお菓子を買ってやる」「給料がほしいので仕方なく働く」どれもそうです。私たちの行為の大半は非自発的行為です。そもそも自発的同意などあるのだろうか、というのが私の問いかけです。
ところが世間では、同意と自発性が混同されてしまう。「同意したんだから、自発的だったんだろ?」というわけです。これはたとえばセクハラや性暴力の事例においてはきわめて重大な帰結をもたらす混同です。
原発事故の「自主避難者」についても、同じことがいえます。そもそも避難に「自主」という言葉が付くのがおかしな話ですが、これによって政府は「住民は自主的に避難したので、災害補償の対象にならない」というロジックを使えることになります。
自発性については、アリストテレスもこれを論じています。たとえば、嵐に遭った船で積み荷を捨てるのは自発的行為かどうか。アリストテレスが自発性に関心をもったのは、法的問題と関係があったからです。殺人と過失致死では法的な扱いに大きな違いがあります。たしかに法的にはそれらを何とか分けなければならないわけですが、非自発的同意という様態を忘れてはなりません。
最後に、「選択」と「意志」の関係を考えて、この自発性の問題を定式化したいと思います。同意と自発性が混同されているように、選択と意志も混同されています。
ここまで論じてきた「行為」とか「同意」はいずれも選択ですね。お金を渡せという要求に同意し、お金を渡す行為を選んだわけですから、これは選択です。選択とは日常のなかで絶えず行なわれている客観的な事実です。
それに対し、意志というのは主観的なものです。だからこの二つはオーダーがまったく違う。ところがこのオーダーのまったく異なる二つが混同される。「君が選択したのだから、君の意志だ」というわけです。言い換えると、意志は、選択が行なわれたあとに突如現れてこの選択に取り憑くのです。そのことに対して私たちの社会はしばしば無自覚です。だから「自主避難者」のような言葉が出てきてしまう。
意志の概念は責任を問うという強い社会的任務を背負っています。意志を使えば、人に責任を強制できる。私はその構造を批判的に論じました。けれども責任はそのようなものにはとどまらないという視点も重要です。
責任はもともとは強制されるものではなくて、訴えに対して自ら応答することではないでしょうか。「責任(Responsibility)」が「応答(Response)」と関係あるのはそのためではないか。僕は「義の心」のようなものを考えています。この義の心が堕落して現れたのが、意志によって強制される責任ではないかと思っているんです。
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がありますが、誰かが困っているのを見て知らぬ振りをするのは自分の責任を果たしていないことであり、勇を発揮するのが真の責任ではないか。意志概念によって強制される「責任」とは別の責任を考えていきたいというのがいま考えていることです。