中動態の意味がわかったところで、問題はこの変化が何を意味しているのかということです。ここで一つのギリシア語の動詞を参考にしながら、その変化の意味を考えてみましょう。
「見せる」を意味する「ファイノー」という動詞があります。これは能動態に活用しており、現代の英語に訳せば「I show(私が見せる)」となります。
では、この動詞が中動態に活用するとどういう意味になるか。中動態に活用するとこの動詞は「ファイノマイ」となりますが、これは私が「見せる」という動作の場になるということですから、要するに「私が見せられる」、英語でいえば「I am shown」という意味をもつことになります。受動ですね。
でもこれだけではありません。別の言い方でこれを翻訳することもできます。現代英語なら、「I show myself(私が私を見せる)」という再帰表現にも翻訳できます。また要するにこれは「私が現れる」ということですから、「I appear」とそのまま自動詞を使って訳してもいいわけです。何がいいたいかというと、中動態は、現代語ならば受動、再帰、自動詞に振り分けられるような複数の意味の集合体としてあるということです。
さて、いまは能動態と中動態の対立を前提にして説明しましたので、三つの意味が一つの動詞のなかに同居しているという事態をそれなりにすんなりと理解できたと思います。しかし一度立ち止まって考えてみてください。僕らが知っている現代の言語の観点からみると、これら三つの意味が一つの動詞に同居しているというのはとてもおかしなことではないでしょうか?
というのも現代の言語でいうならば、「I am shown」は受動態、「I apper」は能動態であり、両者は対立するからです。中動態には、現代ならば対立する意味が同居しているわけです。少しふざけた言い方をすると、かつては一つの家庭のなかで仲良くする兄弟であった受動の意味と自動詞の意味が、歴史的変化の荒波のなかで引き裂かれてしまったということです。
中動態が受動態に取って代わられる過程というのはいわば「下克上」ですね。受動は中動態の意味の一つで、いわばその家臣にすぎなかったのに、中動態を追い落としてしまったのです。
では、なぜ受動態の「下克上」が実現しえたのか。明確な答えはありません。ですが、私は仮説として、社会のなかで徐々に「意志の主体の有無をはっきりさせよ」という要請が強まったからだと考えています。
受動表現と自動詞表現を受動と能動として明確に区別するというのはどういうことでしょうか。それは強制されたのか、それとも自分からやったのかを明確に区別するということです。つまりいまの言語はこう尋問してくるわけです――君は受動的であって現れることを強制されたにすぎないのか?それとも自分の意志で現れたのか?
つまりこの言語は「意志」の有無をはっきりさせようとする。能動と受動を対立させる言語は意志の概念に固執する言語ではないかというのが私の仮説です。
そうやって考えてくると、非常に興味深い歴史的事実があります。古代ギリシア語には中動態が残っているといいました。じつはこの古代ギリシア語には「意志」を意味する言葉がないのです。これは多くのギリシア学者が認めていることです。ギリシア人たちは意志を知らなかったのです。
では、意志の概念をつくったのは誰か?ドイツに生まれ、アメリカで活躍した哲学者のハンナ・アーレントは、意志の概念をつくったのはキリスト教哲学であろうと述べています。実際にアーレントが言及しているのは、初期キリスト教の宣教者パウロや、古代キリスト教の哲学者アウグスティヌスです。ギリシア的なものに対して、キリスト教がまったく異なる世界観を示した。そこに意志の概念も含まれていたのではないかというわけです。僕はかなり当たっているのではないかと思っています。
ところで、童謡『ずいずいずっころばし』のなかに「井戸のまわりでお茶碗欠いたの、だあれ」という一節がありますね。
いま井戸のまわりにいた子どもが、お茶碗を割ったのだとしましょう。その子に対して、大人は「自分でお茶碗を割ったんでしょ。謝りなさい」というかもしれない。
しかし、その子が自分でお茶碗を割ったのは母親に理不尽に怒鳴りつけられたからかもしれない。さらに母親がその子を理不尽に怒鳴りつけたのは旦那と夫婦喧嘩をしてイライラしていたからかもしれない。そして夫婦喧嘩が起きたのは、父親が仕事で嫌な目にあったからかもしれない……。
どんな行為にも、どんな出来事にも原因があります。そしてその原因はいくらでも.ることができる。ところが、そうやって因果関係を遡ると、お茶碗を割った責任を誰にも問えなくなってしまう。だから、まったく恣意的にその因果関係をある時点でブツンと切って、その線分の出発点に「意志」というものを置くわけです。そうすれば「君の意志でやったんだから、君のせいだ」と責任を問うことができます。
この場合、「意志」とは何かというと、純粋なゼロからの出発点であるわけです。何もないところにむくむくと意志なるものが生まれた、そういう風に考えられている。「無からの創造」といってもいいでしょう。これはもちろんキリスト教が世界の創造を説明する際に用いた言葉ですけれども、それと同じ論法が意志という概念のなかに見いだせるわけです。
しかし心のなかに「無からの創造」などありうるでしょうか。外部からのさまざまな刺激、心のなかのさまざまな想念の動き、そういったものの総合として、心のなかに考えや気持ちが生まれます。「無からの創造」などありえません。
つまり僕らは「意志」という言葉をよく考えずに使っていますけれども、この概念には矛盾がある、というか、不可能な概念なのです。その意味で信仰の対象といってもよいと思います。私たちはそうとは知らずに「意志への信仰」のなかにいるのです。
イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「意志は、西洋文化においては、諸々の行動や所有している技術をある主体に所属させるのを可能にしている装置である」といっています。「君の意志でこのお茶碗を割ったんだろう?」といえば、お茶碗を割ったという行為をその人物に所属させ、責任を問うことができる。
これを僕は「行為の私的所有制」と呼んでいます。私的所有という考え方はじつは非常に形而上学的なものですね。私が鞄をどこかに置き忘れて、見つかってから「これは私のものだ」と主張したとしましょう。鞄の中に入っていた手帳や名刺など、私がその鞄を使用した痕跡は示せても、究極的に「所有していること」の根拠を示すことはできません。所有には根拠はない。でも現代社会では一応、私的所有物があることになっています。そしておそらくはモノだけでなく、行為についても私的所有の考え方が浸透している。それが意志の概念によって責任を問う際に現れているのだと思います。