そうしたシニシズムの終着点が、平成末のメディアを騒がせた「第三次AI(人工知能)ブーム」です。AIの能力が人間を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)がくるという、怪しい議論が流行しました。要は「人間なんて、やがてAIに追い抜かれる程度の存在だ」という物言いがウケたわけです。
なぜそんな、自己卑下きわまる人間観が支持されたのか。私は背景として、むしろ「人間がAIに近づいてゆく」プロセスがあったと考えます。
たとえば二〇一四年に世界を騒がせた、小保方晴子氏の研究不正(STAP細胞事件)。理想的な学歴・研究歴を歩んでいたはずの若手学者が、自分の研究の内容を理解せず、たんに周囲が求める文面やデータを(剽窃や改ざんを含めた)コラージュによってつくり上げ、論文にしていた。それはちょうど、AIが画像や文章の「意味」については把握できないまま、外見的には「画像認識に成功した」ように帳尻を合わせるのと同じである。そうした側面がないでしょうか。
グーグルでウィキペディアを検索し、「いまが旬の人」のつぶやきをリツイートしていれば、一切思考しなくても自分を知的に見せられるメディア環境。それに慣れきった私たちは、人間らしい成熟(習熟)の体験を喪失し、自ら進んでAIに近づいていった。それが社会という領域が消え、人との繫がりをITに委ねていった、平成という時代の果てでした。
では、われわれは平成の顚末を反省して、令和の時代をどう生きるべきか。私は「歴史から古典へ」という発想が、一つの指針たりうると考えています。
冒頭で紹介した山本七平は、直近の過去をすぐ消し去ってしまう日本の伝統とは対照的なあり方として、ユダヤ教の「トサフィスト」を挙げています。「欄外(トサフト)」に由来する言葉で、本の欄外に自分の解釈・見解を書き込む人の意味だといいます。
時代が変化しても、本を黒塗りにする(=過去を消してしまう)のではなく、むしろ新しい解釈を加筆してゆく。そうすることで、私たちの価値観の根底にあったり、先祖が歩んできた歴史を刻んだりした共通の古典を、つねに立ち返る場所として保存してゆく。ユダヤ教徒やキリスト教徒は『聖書』に対してそういう操作を続けてきたし、中国では『論語』など儒教の古典に人びとが注釈を重ねてきた、と山本はいっています。
前近代の宗教社会ではない以上、日本人全員が同一の古典をもつのは不可能ですし、望ましくもありません。しかし、一人ひとりが「その人にとっての」古典をもち、何かあればそこに立ち返る。自分にとって大切な書物や映像作品に繰り返し触れなおすことで、自分のなかで変わった部分と不変の部分を自覚してゆく。それは十分に可能だし、必要なことではないでしょうか。
世の中の大勢に流されるシニシズムを克服し、AI化した知性から人間らしさを取り戻すこと。その先に初めて、真に「社会の喪失」を埋めうる令和のビジョンが見えてくるのだと思います。