茂木 ここまでお話をうかがうなかで、すごく深い前提のところで感銘を受けたところがいくつもありました。冒頭おっしゃっていたことですが、たとえば世界人権宣言にしても、「世界のみんなで宣言した」という体裁がないと安心できない欧米諸国のある種の不安の裏返しであって、そのことからも人権をはじめとする西欧的な概念が普遍的でもなんでもないということはよくわかるわけですよね。領域国民国家システムにしてもそうだと思います。そういういわゆる「西側」的な視点、西欧的な概念を前提とした目線でイスラーム世界などを眺めたときに、あたかもそれらが時代遅れであるかのような見え方もすることがあるけれど、そもそも前提にしていることが全然違うんですよね。そういう深いレベルの思考の体系について、日本の中にほとんど理解が行き渡っていないことは非常に問題であると、今回あらためて感じました。
中田 それにまつわって申し添えておきたいことが1つありまして、今の西欧的な概念の大元というのは、基本的にカントにさかのぼると私は思っているんですね。それこそ、茂木先生のクオリアについての本などもとても参考になったんですけれども、要するに「自分は自由である」「自分は自由に考えている」というように、意識を「自分のもの」として捉え、
自由であること、意志の自律を人間の尊厳の根拠と考える発想自体です。そうした自由、自立という考え方自体がイスラームの見方からすると異質なんです。何事かを考えるといったとき、その考え自体が神によって与えられたものであるとイスラームでは理解する。そのレベルで、自律や自由がイスラームにはないんです。思考も行ないもすべて神がつくったものであるという前提への理解がないと、イスラームやイスラーム世界で起きていることは究極的にはわからないと思います。
先ほども言ったとおり、おそらく中世あたりまでは、このあたりについてはキリスト教徒もイスラームとかなり近い考え方を共有していたはずです。ですから、やはりカントあたりがターニングポイントなんだろうなと考えています。自由や自律といった概念が絶対化されて、それこそが人間の尊厳であるという感覚が生じたところが決定的だったのだろうと私は捉えています。
波頭 構造主義的な「状況によって規定されている」という話ではなく、「神によって規定されている」という意味合いで、純粋な自由意志を認めないわけですね。
島田 スピノザに少し近いところがあるのかもしれませんね。
茂木 カントが「啓蒙とは何か」という文章の中で「dare to know」、ラテン語だと「sapere aude」ということを言っています。平たく訳せば「知る勇気」とでも言えるでしょうか。そういう「知る勇気」みたいなものをもたないと、自分たちが当然視しているものが世の中の真実でもあるのかどうか知るところまでは行き着けないんだということを、今日は強く思いました。人権や自由や民主主義にせよ、それに則って生きるならそれはそれでいいのかもしれない。けれども、それが果たして世の中においても真実なのか知ろうと思ったら、自分たちにとって不都合な事実や、知ることそのものに由来する不安と向き合わなくてはいけないんでしょう。
最近でいうと、リチャード・ドーキンスが唱えている無神論などにしても、近代の西欧文明の中にいる知識人たちにとってすごく居心地がいいからこそ支持されているんだと思います。しかし、それが世の中の真実かどうかというとわからないわけですよね。そこを明らかにするには、カントの言うような意味での「知る勇気」が必要なんだと強く思いました。
そして、それにともなって感じたのが、文明間の対話の重要性です。自らの立っている前提を問いなおすところまで行こうと思ったら、キリスト教とイスラームしかり、文明間での対話が不可欠なんだろうなと。そこは今日のお話にものすごくインスパイアを受けました。
西川 カント以前にさかのぼる話ですが、ギリシャ哲学でいうドクサとエピステーメーの区別のようなものや、それについての議論はイスラームのほうにもあるんでしょうか。要するに、根拠のない主観的な思い込みと、客観的で明晰な知識といったものの区別ですね。17世紀以降は後者をなすのが科学であるということが言われて、それが果たして本当かということについても議論が西欧ではなされてきたわけですが、イスラームのほうでもそういった議論のようなものはあるんですか。
中田 それはイスラームのほうにもありますね。ヨーロッパが近代にいたる流れにおいて重要な要素の1つに、アリストテレス哲学の復興があるんですが、それはイスラーム世界から再導入されるかたちでなされたんです。その時期にイブン・ルシュドという、アヴェロエスというラテン語名で知られるアリストテレスの注釈者がいるんですが、彼は啓示と理性の対立について論じるなかで知識の分類を行なっています。初期の考え方によると、すなわち知識は「実証的にわかるもの」「伝聞によって知るもの」に分けられるとされていて、そこにアヴェロエス以後に「神から直接、直感として与えられるもの」というカテゴリーが付け加えられます。
「実証的にわかるもの」は、カントでいうところの分析的なものと総合的なものを合わせたようなカテゴリーです。「伝聞知」は他人から聞いた知識で、ここには神からの啓示も含まれます。要するに、私たちの知識のほとんどは誰かからの伝聞によっていますし、それは科学的な知識とされているものについてもいえることですよね。すべてを実験によって確かめているわけではなく、科学者の言うことを信じているだけということがほとんどです。そのような、実験によって確かめたわけではないけれど、自分以外の誰かが何人も同じことを言っているから正しいとみなしている知識というものがある。それを伝聞知とカテゴライズしています。神からの啓示も、預言者からの伝聞によって知るものですから、ここに含まれるわけですね。
それから最後の「神からもたらされる直観」は、まさしく考え出されるのではなく直観として与えられるものを指します。理屈で導かれたり、実験によって確かめられたりするのではないかたちで、ふっと浮かぶ直観ですね。こうした直観については、正しいか否かを問いようがないということで、その証明は諦められます。諦められはするんですが、議論はこの3つのカテゴリーを前提として出発します。
ただし、直観については、当然のことながらわからない人間もいるわけですよね。証明のしようのないことであって、信じるかどうかの域を出ない。そうなると、信じる人間と信じない人間のあいだには埋まらない溝ができるわけです。そこでは議論は成り立ちません。前提が違いますから。イスラームにおいて共存の作法が大事にされているのはそれゆえです。わからない人をして、無理にわからせようとしても仕方ない。だから、真正面からぶつかったらモメるとわかっている人間とは話をしないんです。立場の違う人間を叩きのめそうとむやみに躍起にならず、最終的な決着は神に委ねる。それが本来のイスラーム的な態度なんです。
波頭 「共存の作法」はこれからの世界のあり様のキーワードかもしれないですね。中田先生、本日はありがとうございました。