さて、近代西欧由来の概念が自明の前提かのように語られる現在の世界の端緒は、19世紀にまでさかのぼります。今や西欧諸国が斜陽を迎えつつあるなか、もはや歴史となりつつありますが、当時の西欧は世界の中でも圧倒的な強さを誇っていました。アジア・アフリカのほとんどを西欧列強が植民地化していたことからも、そのことは明らかといえるでしょう。
この「西欧の時代」たる19世紀について理解するには、さらに17世紀までさかのぼらなくてはなりません。それは19世紀から現代にいたる領域国民国家システムの土台が形づくられたのが、まさに17世紀だからです。1625年にはグロティウスによって『戦争と平和の法(De jure belli ac pacis)』が著され、また1648年にはウェストファリア条約が締結されました。国際法に基づく主権国家体制が西欧の中において成立したのは、まさしくこの時期のことなのです。
ただこの17世紀には、西欧は世界においてまだ一地方文明にすぎませんでした。イスラーム世界では、中東〜地中海を席巻するオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、インドのムガール帝國が鼎立してそれぞれに勢力を誇っていましたし、ロシアにおいてロマノフ朝ロシア帝国、東アジアで大清帝国が成立したのもこの時期です。
西欧は、1683年には、その中心であり盟主だったとも言える神聖ローマ帝国でさえ、首都ウィーンがオスマン帝国によって包囲される事態に陥っています。当時の西欧は諸帝国と並び立つどころか、競り負けることさえある一地方文明にすぎなかったわけです。
本スピーチの副題にある「帝国の復活と文明の再編」とはすなわち、世界がこうした17世紀的な状況へと回帰していくヴィジョンを表すものです。凋落を迎えつつある欧米にかわってかつての帝国が復興を遂げ、一地方文明にすぎなかった西欧的なものを相対化するかたちで各地において文明の再編が起こる。そうした世界的な動きを指して、帝国の復活と文明の再編という表現を用いています。
ところで、後段のためにここで少し帝国というもののあり方についてもう少し述べてみたいと思います。
たとえば、中国文明を考えるうえでは、異民族王朝(あるいは征服王朝と呼ばれることもありますが)というものが非常に重要になってきます。中国にはもともと儒・仏・道3つの宗教があり(場合によってはそこに「回」=イスラームが加えられることもありますが)、基本的にはそのうち儒学が共通の原理とされ、重要視されています。ただ、儒学はもともと漢民族という一民族の習慣にすぎず、普遍性を有したものではありません。それを普遍化し、他の民族にも守らせることでそれらを帝国へと包摂しようという発想が現れるのは、異民族王朝であった元と清においてでした。
しかしそうは言っても、こうした儒教に則る支配が通用していたのは、実際には漢民族に対してだけでした。それ以外の民族に対してはどう振る舞っていたかといえば、平たくいうと複数の顔や称号を使い分けていたわけです。たとえば清帝国の場合、チベットやモンゴルといった仏教に対しては仏教の守護者として振る舞っていました。他方で、モンゴル系の諸王朝であるいわゆるハーン国に対しては、モンゴル帝国の伝統に則るかたちでハーンとして君臨していました。これらハーン国は、15世紀までにモンゴル高原を除く大部分がトルコ化・イスラーム化していたわけですが、そもそもはチンギス・ハーンが建国の祖となったモンゴル帝国に由来をもつ王朝です。今まさに問題になっているウクライナで、2014年にロシアが侵攻を行なったクリミアという地域がありますが、そのクリミアにもクリミア・ハーン国というモンゴル系の王朝が長らく存在していました。
このように、民族や地域に応じて複数の顔を使い分けるのが、清帝国の支配のあり方でした。実はこうしたあり方は、多民族・多宗教を包摂する帝国においては珍しいものではありません。オスマン帝国にしても、メフメト2世が1453年に当時東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を征服した際には、ギリシア正教のコンスタンティノープル総主教に承認されるかたちで「ローマ皇帝(Kayser-i Rūm)」を名乗り、スルターンでありながらギリシャ正教の守護者をもって任じていました。現在もイスタンブールには、ギリシア正教会の主教座のうち最も格式の高いコンスタンティノープル全地総主教座が置かれていますが、オスマン帝国の支配者は代々その守護者を名乗りつづけてきたわけです。
このように、版図の拡大にともなっていろいろな称号や立場を自らに付け加え、たくさんの顔を使い分けていくことは、雑多な民族、宗教、エスニック集団が共存する帝国においてはごく当たり前のことでした。この点は帝国の再編を考えるうえできわめて重要なため、ぜひ押さえておいていただければと思います。
さて、「現在は帝国の時代への揺り戻しが起きつつある」「帝国の復活と文明の再編」の時代であると先ほど申しましたが、このような指摘をしたのはなにも私が初めてではありません。というのも、かの梅棹忠夫氏(元国立民族学博物館館長・日本中東学会会長)が『文明の生態史観』(中公文庫、1967年)というよく知られた著書の中で、この状況についての先見的な洞察をはっきりと記しているからです。『文明の生態史観』の元論文が発表されたのは1957年ですから、すでに60年以上も前に指摘がなされていたということになります。
梅棹は述べています。古代以来、西欧と日本を除く旧世界には中国世界、インド世界、ロシア世界、地中海・イスラーム世界、という4つの自己完結的な単位があり、その構造は近世になって清帝国、ムガル帝国、ロシア帝国、トルコ帝国において完成した。そして現在のこれらの諸世界は、「植民地主義者のつごうからつくられた」「たいして根拠のあるものではない」「こまかな国境わり」を超えて、「おのおのの『世界』の再建」の過程にある、と。
私自身がこの梅棹の指摘をふまえて書いたのが、『イスラームのロジック』(講談社選書メチエ、2001年)です。この本が出版されたのが2001年ですから、私がこの「帝国の復活と文明の再編」という世界認識にのっとって発言しはじめてからすでに20年以上が経過しているということになります。それがやっと実感をもって感じられはじめてきたのがこの10年、とりわけこの数年ではないかと思います。すでに私たちが肌で感じている中国の台頭、そしてごく直近のウクライナ危機の顕在化に見られるロシアの動きは、まさにその表れです。中国は言うまでもなく、ロシアという国の根本的な考え方も西欧のそれとはまったく違うんだということが、日本にいる我々にもここにきて少しずつ伝わりつつあるのではないかと思います。