ここまで繰り返し「21世紀は帝国の復興と文明の再編の時代である」と申してきたわけですが、具体的にそれが今どのようなかたちで進行しているのか、かいつまんでお話ししたいと思います。
2021年8月15日、米国の凋落を目に見えるかたちで世界中に知らしめる出来事が起こりました。アフガニスタンの首都カブールへのタリバーンの入城と、米軍の無残な敗走です。実はあの米軍の撤退は、自国の国力低下と中国の台頭を受けて二正面戦争を断念した、アメリカの既定方針によるものでした。中東を放棄して東アジアに注力するとの宣言自体は、すでにオバマ元大統領の在任期間中になされていましたし、トランプ元大統領は2020年の段階で、傀儡のアシュラフ・ガニー政権の頭越しにタリバーンと和平合意を結んでいました。ですから、件の撤退は既定方針を実行に移したにすぎないという点で、けっして突拍子のないものというわけではありませんでした。
ただ、そうは言ってもその敗走の様子は、米軍ひいては米国の凋落を、世界に対して強く印象づけるものでした。群がりすがりつくアフガン人を必死に振り落とす米軍機、米軍があわてて捨てていった兵器を鹵獲し勝利を高らかに宣言するタリバーンの人々、ISと間違えて子供を含む民間人10人以上殺害した誤爆の一部始終。これらの映像が世界中に衛星放送で配信されたことは、劣化した米軍の無秩序な敗走のイメージに当然のことつながりました。そのうえ、この撤退がなされたのは、中国が徹底的な弾圧によって香港の民主化運動を押しつぶし、いよいよ台湾にも触手を伸ばしかねないとささやかれていたタイミングでもありました。であるがゆえに、この撤退は「アメリカは同盟国を見殺しにしかねない」というメッセージとして、世界中(それこそ、中東を棄てて注力するつもりでいた東アジアを含む)に受け取られることとなってしまいました。
このような出来事があって以来、ユーラシアの状況は急速に変化しつつあります。まず、日本ではあまり知られていませんが、上海協力機構(SCO:Shanghai Cooperation Organization)という国際組織に、それまで加盟を反対されていたイランが2021年に正式に加わりました。もともとSCOは、中国とロシアがウイグルから中央アジアにかけてのムスリム諸国を抑えるために結んだ軍事協定ですが、それが今ではユーラシアの勢力バランスを保ち、治安を維持するための調整機構に変質しています。インドも加わったことで、SCOは世界人口の半数近くを占める国際機関になっており、今やG7にとってかわる勢いを有しています。
それからトルコでは昨年11月、もともとは文化的な協力のために立ち上げられたトルコ語圏の組織である「テュルク語系諸国協力会議」が、「テュルク諸国機構」という国家組織に改組されました。現在まさに戦火のただなかにあるウクライナも、先に言及したクリミア・ハン国がオスマン帝国との絆を有していたことから、同組織へのオブザーバー参加を申請しています。
こうした動きは、アメリカがユーラシアにおけるプレゼンスを急速に失いつつあるなか、中国やロシア、イラン、そしてトルコといった旧帝国の諸国がその穴を埋めにかかる動きとして捉えるべきものです。タリバーンの勝利以降、ユーラシアの状況はめざましく変動しつつあります。今年1月のカザフスタンでの暴動にも、アメリカはロシアの介入を尻目にただ手をこまねいているばかりでした。ソ連崩壊後、相当額の投資をカザフスタンに対して行なっていたにもかかわらず、です。こうした大変動下に我々は置かれているのだということを、私たちはしっかりと認識しなくてはなりません。
最後に、これまで述べてきたような状況下において、日本がどのようにふるまっていくべきかについて私見を披露して、今回の講演を終わりたいと思います。
大前提として、現在の世界で起こっていることを正確に捉えるためには、欧米諸国と非欧米諸国との対立をすべて「自由と全体主義の戦い」「民主主義と専制の戦い」といった図式に落とし込む、旧来的な冷戦思考から脱却しなくてはなりません。そもそも、マルクス主義が資本主義や自由民主主義と同じく西欧の産物であることを踏まえれば、アメリカに代表される「資本主義・自由民主主義」と旧ソ連に代表される「共産主義・民主集中制」とを、存在論的に対立する異質な価値観・政治制度として語ること自体、奇妙な話と言わざるを得ません。マルクス主義は19世紀の西欧の最新の思想であり、全体主義も独裁もフランス革命のロベスピエールの恐怖政治の忠実な継承者に過ぎない。自分たちにとって都合の良い秩序を「自由」「民主」という言葉で語り、それにそぐわないあり方を「専制」「全体主義」という呼び方で貶める。そういう恣意的な思考の枠組みを取り払い、客観的かつ冷静に世界を眺める必要があります。
どの人間にも、どの集団にも、どの民族にも、どの国家にも、それぞれの「自由」があり、それぞれの「民主」があります。そしてそれは、互いに理解できる場合もあれば、理解できない場合もあるものです。あるいは、理解はできても納得はできない場合もあるし、納得できなくても妥協はできる場合もあるし、どうしても妥協できない場合だってなかにはあります。そのことをフラットに受け止め、自分たちの信じる価値観で他者を測ってはばからない愚かしさを自覚することが、真のリアリズムだと私は考えます。
ですから、日本人もいい加減「名誉白人」扱いに甘んじて浮かれつづけるのをやめにしなくてはいけません。欧米諸国がまことしやかに語る「自由」「人権」「民主主義」といった概念の恣意性を看破し、それぞれの民族や国家がよって立つ文明的原理を見極め、共存の道を探っていく必要があるのです。
第二次世界大戦に敗れたのみならず、その後の経済的成功を活かすこともできず、中国にその地位をとって代わられたのは、結局のところ日本が東アジアの盟主たるための徳を欠いていたからです。アメリカの属国の地位に甘んじて自国の利益の追求に終始し、「Japan as No. 1」と称されるだけの経済力を得たにもかかわらず、その力をもってアジアの旧植民地諸国に対して果たすべきであった道義的責任を果たしませんでした。その結果として日本にあてがわれたのが「エコノミック・アニマル」という蔑称であり、アジアにおけるプレゼンスをかつてと比べてすっかり失った現状です。ものづくりの文脈でも、東南アジアなどではまだ多少かつての名残があるものの、中東などではせいぜいトヨタが多少の存在感をもっているくらいで、今や韓国や中国に相当引けをとっています。
こうした日本の凋落傾向に歯止めをかけることは、残念ながらもはや不可能でしょう。少なくとも、国家としての日本に積極的に期待できることは、これ以上ないと私は思います。アメリカの覇権が崩れ、中国に牽引されるかたちで東アジア中華文明圏の復興が進むなか、国としての日本は中・米・露の覇権争いに翻弄されるほかなく、東アジアの盟主へと返り咲くことは到底ありえないと言ってよいでしょう。
こうした現実を受け止めたうえで、私たちは何をしていくべきなのか。1つ言えることは、中国を中心にして復興の進みつつある東アジア中華文明圏において、東アジア諸民族の共和と共栄をうながす役目を、日本人が一定果たしていける可能性はあるということです。大日本帝國の失敗の反省に基づいて、習近平の中華帝国の偏狭な漢民族ナショナリズムと武力による覇道の拡張主義を批判し、多民族が共存・共栄する新しい東アジア中華文明圏の構築に寄与すること。それが日本に残された道であり、異民族王朝としての大日本帝國の敗戦処理にもなると私は考えます。
繰り返しますが、私はもはや国家としての日本に積極的に期待できることは、これ以上ないだろうと考えています。もちろん、これ以上おかしなことをして凋落に拍車をかけるような真似はやめてくれという「消極的な」期待はなくもないですが、なんらかの特効薬的な策によって国家として勢いを取り戻すことはありえないと見ています。ですから、ここで言う「敗戦処理」も、国家としての日本というよりは、志ある私人、意欲ある若い人たちが担うべきというか、担わざるを得ないものと考えています。私たち大人にできることは、そうした意欲的な若者たちを応援し、その活動を妨げるものを取り除く方向に努めることではないでしょうか。
そして、そうした「敗戦処理」に活用しうるプラットフォームとして私が大いに期待しているのが、日本のアニメやマンガといったいわゆるサブカルチャーです。とくに日本のアニメは、日本国が経済力で中国や韓国の後塵を拝し、ものづくりでも衰退を見せつつあるなかにおいても、世界の中で実に大きな存在感をもっています。東南アジアでは日本のアニメはもはや共通「教養」といえるほどに浸透していますし、中国でも子どもたちが日本のアニメを見て育っている実情があります。世界的にそれぞれの宗教における聖典の権威が下がり、学校教育も倫理的な基礎をもたず信頼を失墜させているなかで、日本のアニメーションは若い世代の間で共通教養としての立ち位置を確立しつつあります。未だに聖典クルアーンが民衆の間で読み継がれているイスラーム世界においてさえも、難しい言葉遣いの『クルアーン』より、『NARUTO』の主人公の生きざまのほうが、若い人の指針になっていたりする現状があります。
これはすなわち、日本が軍事力でも政治力でも経済力でもなしえなかった「東アジアの諸民族の協和」を、アニメをはじめとする日本のサブカルチャーが一定程度成し遂げているということだと私は捉えています。ですから、このプラットフォームを活用して、智仁勇、義理、人情といったアジア的な価値の再興を東アジア中華文明圏において促していける。そのようにして、志ある若い日本の人たちが、西欧的なナショナリズムを超えて諸民族が共栄する新しい東アジア新秩序の実現に寄与していける可能性は残されているだろうと、私は信じています。