内田 せっかくですから、今日はなるべくあまり他の人が言わないようなことを言ってみたいと思います。タイトルは「コロナ後の世界」です。この「コロナ後の世界」というタイトルはニュートラルなものに思われますが、実は幾分は論争的なものです。
コロナが流行し始めてから1年半が経ちましたが、世の中には「コロナ後の世界」という枠組みでものごとを語ることを拒絶している人たちが結構います。「コロナはただの風邪だ。罹かる人は罹る。死ぬ人は死ぬ。それによって世界は変わるわけではないし変わるべきでもない」と言う人たちです。僕はこういう人たちのことを「コロナ・マッチョの人」というふうに呼んでいます。彼らは「コロナ後の世界」は「コロナ前の世界」と基本的には同じものであるし、同じものでなければならないと考えています。ですから、「コロナ後の世界」というトピックでものを考えることを受け入れません。僕があえて「コロナ後の世界」という演題を掲げるというのは、その人たちとは見通しが違うということを意味しています。このパンデミックによって、世界はいくつかの点で、不可逆的な変化をこうむった。そして、それはこの感染症が終息した後も、もう元には戻らない。僕はそう考えています。
僕は武道家ですので、「驚かされること」が嫌いです。「驚かされないため」には、何が起きても全く反応しないで鈍感になってみせるわけではありません。逆です。「驚かされない」ためのコツは、「こまめに驚いておくこと」です。
「驚かされる」というのは受動態です。「驚く」は能動態です。自分から進んで、わずかな変化を感知する。「風の音にぞ驚かれぬる」です。「目にはさやかに見えねども」「人こそ見えね」の段階で、他の人が気付かないような微細な変化の兆候に気づく。そうやってこまめに驚いていると、地殻変動的な変化を見逃すことはありません。だから、いつも驚いていると、驚かされるということがない。
そういう心がけで、去年の夏前から「コロナによって世界はどう変わるのか?」という問題意識を持って出来事を眺めてきておりました。わずかな変化も見落とさないようにしようと思ってきました。変化に過敏でしたから、「コロナ後の世界はこう変わる」という僕の予測は全体に変化を過大評価する傾向があると思います。そのことはあらかじめお断りしておきます。しばらく経ってから「内田はいくらなんでも取り越し苦労で騒ぎすぎだったよ。実際にはコロナで大した変化はなかったじゃないか」と総括されるリスクもありますが、僕としては「大きな変化を見落とす」リスクを避けるために、思いつく限りの変化の兆候を列挙しておきたいと思います。
コロナ後の世界では色々な領域で変化が起きます。国際政治、経済、医療、教育、軍事などなど様々なレベルで大きな変化がある。
まずこれからの議論の前提として、一つだけ全体で共有しておきたいことがあります。それは、今後も世界的なパンデミックが間欠的に必ず繰り返すということです。野生獣に寄生しているウイルスが人間に感染して、変異して、それがパンデミックを引き起こすということは、これからも短い間隔を置いて繰り返されます。新型コロナの感染が終息したら、それで「おしまい」というわけではありません。人獣共通感染症は21世紀に入って新型コロナで4回目です。SARS、新型インフルエンザ、MERS、そして新型コロナ。5年に1回のペースで、新しいウイルスによる人獣共通感染症が世界的なパンデミックを引き起こしている。SARSでは日本の感染者は出ませんでしたが、東アジアではたくさんの感染者・死者を出しました。
ウイルスを媒介する野生獣は鳥、コウモリ、豚、ラクダとさまざまですが、どれも本来は人間と接触する機会の少ない野生獣です。それと人間が接触して、野生獣のウイルスが人間に感染して体内で変異することでパンデミックがもたらされるというパターンは同じです。そして、人類が自然破壊を続け、野生獣の生息地がどんどん削り取られ、人間と野生獣の接触機会が増える限り、人獣共通感染症はこれから先も繰り返し発生する。それは専門家が警告しています。アフリカ、南米、アジアがこれからも感染症の発祥地になると思われます。
人獣共通感染症の原因は人間による自然破壊ですが、もう一つ、自然による文明破壊が起きる場合でも、野生獣と人間の接触機会は増えます。野生の自然と都市文明の「緩衝帯」がやせ細れば、そうなります。日本でこれから懸念されるのは、このタイプの「人獣接触」です。