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コロナ後の世界

キーノートスピーカー
内田樹(思想家)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

グローバル経済から国民経済へ

コロナ後の世界でも、繰り返しパンデミックが起きるということを前提にした上で、何が起きるかについて予測をしてみたいと思います。第一は皆さんがすでに見通している通り、グローバル経済の停滞です。

グローバル資本主義の時代では、ヒト・商品・資本・情報が国民国家の国境線とかかわりなく、クロスボーダーに超高速で行き来するということが自明のこととされていました。しかし、コロナを経験したことによって、国民国家の国境線は思いの外ハードなものであることが再確認されました。

去年の1月に最初に医療崩壊を経験したイタリアでは、マスクとか防護服とか人工呼吸器といった基礎的な感染症対策の医療資源の備蓄がありませんでした。イタリアはすぐにフランスとドイツに緊急輸出を要請しましたが、両国ともこれを拒否しました。自国民の生命を優先的に配慮するので、他国には送れないということでした。そのせいで、イタリアは医療崩壊に陥り、多くの国民が死にました。EUでは国境線は有名無実であるとされていましたが、実際には国民国家の国境線が堅牢な「疫学上の壁」として排他的に機能した。

「必要なものは、必要な時に、必要な量だけ、マーケットから調達できる」ということがグローバル資本主義の前提条件でしたが、この条件が覆されました。必要なものが、必要な時にマーケットでは調達できないことがある。考えれば当たり前のことですが、それが明らかになった。国民国家が、自国民の生命と健康を守ろうとするなら、必要なものは自国内で調達できる仕組みを整備すべきであって、「要る時になったら、金を出して買えばいい」というわけには行かない。そのことを世界は学習したのです。

でも、国民国家の排他性の強化という傾向は実はコロナの前から始まっていました。トランプは移民を入れないために、メキシコとの間に壁を作ろうとしました。イギリスはEUから抜けて、「英国ファースト」のブレグジットを選択しました。

国民国家というのは17世紀のウェストファリア条約によって人為的に作られた政治的擬制ですから、歴史的条件が変われば、変質し、必然性を失えば消えてゆく。そういうものだと思われていました。しかし、パンデミックで「国民国家は意外にしぶとい」ということがわかった。

資本主義の本家であるアメリカは、必要なものは全部金で買う、在庫は持たないという経営思想でしたから、感染症の医療資源についても、ほとんど在庫がありませんでした。マスクとか防護服とかいうシンプルな医療資源は別に国産である必要はありません。一番製造コストの安い途上国にアウトソースすればいい。経営者たちはそういう考えでしたので、感染初期にマスクや防護服といった最もベーシックでシンプルな感染症のための医療資源の戦略的備蓄がほとんどありませんでした。その結果、多数の感染者・死者を出した。別に高度医療が足りなかったのではなく、開発途上国で、未熟練労働者を低賃金で働かせて製造すればいいと思っていたものが不足して、人が死んだ。

そのときに、感染症対策のためにはば医療資源に「スラック(余力、遊び)」が必要だということが骨身にしみた。感染症のための医療資源を大量に在庫として抱えておくと、感染症が流行しなければ、それはすべて「不良在庫」になる。そして、感染症はいつ来るか分からない。もしかしたら、この新型コロナがだってある日いきなり終息して、それから何年も「次のパンデミック」が来ないかも知れない。

その間、感染症のための病棟も医療器具も薬剤も、感染症専門の医師や看護師も「不良在庫」扱いされることになります。神戸大学の岩田健太郎先生に率直にお聞きしましたが、感染症という診療科は大学病院でも「不要不急の診療科」という扱いを受けるんだそうです。病院経営者が「病床稼働率100パーセント」を目標に掲げ、「不良在庫一掃」を指示するような病院では感染症のための戦略的備蓄の余地がありません。

事実、日本ではこれまで保健所を減らしたり、病床数を減らしたり、ということをずっとやってきました。医療費をなんとか削減しなければならないということが国家的課題として掲げられていたからです。だから、医療機関を統廃合して、何とかして医療機会を減らそうとしてきた。そうやって「スラックのない医療機関」を理想としてきたので、今回のようなパンデミックに対応できずに、何度も医療崩壊を起こした。

アメリカは「スラックの戦略的必要性」ということをすぐに学習して、すでにトランプ在任中から、主要な医薬品と医療資源に関しては外国にアウトソースせず、国産に切り替えるという方向を示しました。もちろん製造コストははるかに高くなるわけですけれども、「金より命が大事」だという基本的なことは学習した。

これから先、米中の経済的な「デカップリング」もあって、サプライチェーンを他国に依存しないという動きが出てくると思います。エネルギー、食料、医療などを国産に切り替えるというのはグローバル資本主義から逆行する方向です。

グローバル資本主義では、企業はどこかの国民国家に安定的に帰属するということはありません。最も賃金が低く、製造コストが安いところに工場を建て、公害規制の緩い国で廃棄物を棄て、政治が腐敗していて役人が簡単に買収できる国で法律の網の目をくぐり、租税回避地に本社を移して、税金を払わない、というのがグローバル企業の常識です。

だから、グローバル企業にとって、国民国家の国境線が強化されるというようなことは想像だにしていなかったと思います。でも、パンデミックのせいで今起きているのは、企業は何らかの国民国家の国家内部的存在であって、国に対して帰属感を抱き、同胞たる国民のために雇用を創出し、国庫に多額の税金を納める「べき」だという国民経済への回帰の心理です。まさか、21世紀になって「国民経済への回帰」起きるとは思ってもいませんでしたが、もしかすると、これは不可逆的なプロセスであるかも知れません。

気象変動で分かる通り、グローバル資本主義はいかなる国民国家に対しても帰属意識も忠誠心も持たないばかりか、地球に対しても愛着がなく、人類に対して同胞意識を抱かない存在であることが明らかになりました。国連が始めたSDGsもそうですけれど、この十年ほどは「グローバル資本主義を抑制して、国民国家単位で、自国民の利益を優先するように行動する」という動きを各国政府がするようになりました。「なんとかファースト」というのがそれです。

でも、今回のパンデミックで、まず自国民の生命と安全を確保する、まず自国民の雇用を保障するということが政府の仕事であるということがはっきり示されました。グローバル企業が大儲けすれば、「トリクルダウン」があって、国民は恩沢に浴するのだから、政府は企業が経済活動しやすいように支援していればよくて、国民への公的支援は要らないというタイプの、バケツの底の抜けたような「新自由主義」政策はもう命脈尽きたということです。

もう一つパンデミックが終わらせたのが「遊牧的生活」です。

フランス語に「ノマド(nomade)」と「セダンテール(sédentaire)」という単語があります。「ノマド」は遊牧民、「セダンテール」は定住民のことです。グローバル資本主義におけるビジネスプレイヤーはノマドであることが基本でした。企業もそうですし、ビジネスマンも、株主も、みんな「ノマド」です。ビジネスチャンスを求めて遊牧的に動く。定住しないし、いかなる「ホームランド」にも帰属しないし、いかなる国民国家に対しても忠誠心を抱かない。それがデフォルトでした。

日本でも、この30年、エリートであることの条件は「日本列島内に居着かない」ということでした。海外で学位を取り、海外に拠点を持ち、複数の外国語を操り、海外のビジネスパートナーたちとコラボレーションして、グローバルなネットワークを足場に活動する。日本には家もないし、日本に帰属感もないし、日本文化に愛着もない、という人たちが日本はいかにあるべきかについての政策決定権を握っていた。まことに奇妙な話です。日本に別段の愛着もない人たち、日本の未来に責任を感じない人たちが、日本はどうあるべきかを決定してきたのです。そういう人が「一番えらい」ということになっていたからです。

グローバル企業の採用条件は「辞令が出たら明日にでも海外に赴任して、そのまま一生日本に戻らなくても平気な人」ということでした。「日本以外のところで暮らせる人間しか採用しない」と豪語した経営者さえいました。まことに不思議なことですが、「日本国内にいなくても平気な人、日本語で話せなくても平気な人、日本の食文化や伝統文化にアクセスできなくても平気な人」が日本国内のドメスティックな格付けにおいて一番高い評価を受けるということになったのです。ですから、ある時点からエリートたちは自分たちが「いかに日本が嫌いか」、「日本はいかにダメか」を広言するようになりました。そうすると喝采を浴びた。これはいくらなんでも倒錯していると思います。

でも、パンデミックで、「ノマド的な生き方」をする人を最も高く評価するというこれまでの人事考課にはブレーキがかかるだろうと思います。

それよりも、政策の優先課題は、日本列島から出られない人たちをどうやって食わせるか、この人たちの雇用をどう確保するか。どうやってこの人たちに健康で文化的な生活を保障するか、ということになります。これは池田内閣の時に大蔵官僚だった下村治の言葉です。日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本食しか食べられない、日本の宗教文化や生活文化の中にいないと「生きた心地がしない」という「セダンテール(定住民)」が何千万といます。まずこの人たちの生活を保障する。完全雇用を実現する。それが国民経済という考え方です。

これまでは「セダンテール」たちは二級国民という扱いを受けてきました。日本にとどまって、遊牧的な生活を回避してきたというのは僕ら自身が自己決定した生き方である。そのせいで社会的な評価が下がっているのであるから、その低評価は自己責任である。だから「セダンテール」は公的支援の対象にならないというのが新自由主義イデオロギーにおける支配的な言説でしたが、それはそろそろ賞味期限が切れて、説得力を失ってきた。パンデミックはある地域に住むすべての住民が等しく良質の医療を受けられる体制を整備しない限り、収束しませんし、国境線を越えて活発に移動する「ノマド」は、疫学的には「スプレッダー」というネガティヴな存在とみなされるようになったからです。