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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

島田 不合理性を権威付けとして、頭ごなしの禁止をするためには神を持ち出すことが有効です。神を持ち出すことで宗教的なコンテクストの中では一方的な正義が成り立ちます。特にアメリカではそこに依拠することで政治を動かす一面があります。

波頭 無意識の禁止条項であれば良いですが、宗教的に成文化、明文化されてドグマになると厄介な側面が出てきます。無意識の柔軟さが失われて硬直化してしまうことによる弊害です。

島田 Netflixに『メシア』というドラマがあります。このドラマは、現代のパレスチナに現れたイエス・キリストのような人物が、奇跡を起こすという噂を携えてアメリカに渡ってくるという話です。

波頭 奇跡を見せることこそが身体性の象徴であると思います。話を聞くだけであれば「別に…」と思う人でも、奇跡を目の当たりにしたら思わずひれ伏します。

千葉 特に何事も起こらなくても身体が目の前にあるだけで相手のことを殺せなくなる、そのことこそを「奇跡」と呼んだのだと思います。

西川 文系と理系の話に関して面白い視点だと思ったのは、自然言語を持ち出されたことです。自然言語は言語を学習した主体が自ら言語を創り出して、言語を社会へと還元します。これは明らかにプログラミング言語やチューリング型の人工言語とは異なります。自然言語と人工言語というテーマは、理科系の視点からもアプローチ出来そうだと感じました。

あともう一つ、理科系に対しての文科系からの批判をマルクス・ガブリエルが展開していますが、千葉さんの議論はガブリエルよりももっと本質的だと思いました。

千葉 ガブリエルはサイエンティズムをごく単純に批判していて、「意味」の領域は科学還元主義では説明できないと言っている。よくある文系擁護論です。

島田 人工言語の問題に関連して、二進法のプログラミング言語の限界が言われて量子コンピューターが注目されています。量子コンピューターはゼロでもありイチでもあるという、人の無意識のような曖昧な重ね合わせの状態を作り出そうとしています。これは無意識を人工的に作り出す試みに近いようにも思います。

西川 生物科学から考えると、17世紀に唯物論的になった科学は、19世紀のダーウィン、20世紀のチューリング、シャノンの登場により目に見えない因果性に注目するようになりました。目に見えない因果性より更に進んで、自然言語を含む人間の「精神」をどう扱うかというテーマを理科系が真面目に考えるべき時期に来ています。

伊藤 仮説を立ててテストをするのが科学者なので、理系の人は頭の中に同時にめちゃくちゃなコンテクストが存在することを嫌がると思います。一方で文系はconflicting contextを同時に脳内に持つことでアブダクションによる推論が可能になります。そうした文系的な思考を真似して、複数のモデルを同時に走らせて比較することが出来るコンピューターが最近出てきていますが、そのコンピューターを作っている人は理系的に仮説を立ててテストをして結果を出すというプロセスをとっています。人間の脳を再現していくと徐々に文系的な中身になっていくのに対して、作るプロセスは理系的であるという点が面白いです。

波頭 作るプロセスはプラクティカルで理系的なシステマティックなプロセスで作らざるをえないからでしょう。

千葉 今回お話したことをどう理系の領域で考えるかというのは大きな問題です。フロイトは元々生物学の出身で、神経系のエネルギー経済について考えていましたし、当時は生命を動かすエネルギーに関して色々な生気論があったり、ベルクソンの哲学が出てきたりしていました。ですが結局今に至るまで、生命と機械の違いは明らかになっていません。どのようにして物質から生命へとジャンプするのかという創発の問題です。

人間が行う論理的な推論は機械で代行できるかもしれませんが、人間の身体性が関わるコミュニケーションには生物の謎が関わってきます。ですから推論の限界としての非合理性という問題を科学の問題へと折り返すならば、現在の自然科学においても物質から生命への飛躍が謎に留まっていることとトポロジカルに対応しているように思います。