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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

山崎 千葉さんの隣で少しドキドキしながら、経済学は理系なのか文系なのかについて考えながら聞いていました。経済学は「禁止の根拠」に対しておそらく自覚的ではなく、理系的な推論で物事を積み重ねているという顔をしていながら、出来ることの可能性を拡大する貢献も出来ていません。

80年代にはお金の価値には性的な価値が関わっているという議論があったように思いますが、お金がデジタルになった時にお金の価値を規定しているものは何か、お金はなぜお金なのか、といった点により自覚的でなければならない。少なくとも文系の学問でもあることの責任を引き受けて学問を行うべきだと思いました。

ただ経済学者としては文系的な学問としての責任から逃げた方が論文が書きやすく学者としての地位向上に有効であることもあり、経済学に文系の学問としての責任を取らせることは難しいと感じます。

波頭 貨幣がデジタルになることでお金が身体性を失って「軽く」なると思います。同じ所得や同じ資産でもデジタルである方がお金を使うようになるでしょう。お金のデジタル化はインフレを招くと思います。

西川 使用価値という概念はまさに文系的なものですよね。経済学が数理的な方向へ進んでいる中で、再び使用価値という概念の方に戻すという考えは文系的だと思います。

山崎 お金とは他人を動かす力の数量化されたシンボルです。お金はモノである必要はないのでデジタルであってもいいと思います。お金は感謝の印として払われるという明るい面もありますが、正当な理由なしにお金を貰うと相手から恩を押し付けられていると感じるように、お金には一種の暴力性もあります。年収500万のお父さんより年収1000万のお父さんの方が「価値が高い」ということを示してしまいかねない暴力性もあります。

こうした議論が経済やファイナンスの分野で真剣になされていないことも、金融教育がうまくいかないことの根底にあると思います。お金は汚いものじゃないんですよ、ということだけを教えようとしてもお金の持つ暴力性は伝わらず一面的な教育になってしまいます。こうしたことについて自覚的になるためには、経済学もファイナンスも文系的な思考の根底をもって考えていく責任があるように感じました。

波頭 謝礼をする時に1万円の紙幣を貰った方が自由度は大きいのに、現金を渡すのは失礼だから相手のことを思って選んだモノを渡す方が丁寧だという感覚があります。それこそが無意識に根拠を持つ身体性的価値だと思います。そういうところに人間の合理性だけでは漂白されていない価値体系がこもっているのだと思います。それを無くしていくと、機能合理性や経済合理性だけに支配されたロボットのマネジメント社会のようになっていくと思います。

波頭 それが千葉さんのスピーチのタイトルに繋がると思います。合理性を重視しすぎるとコンテクストが失われ多様性が損なわれますが、例えば学位はお金を払って買うことが出来ないからこそ価値があります。

暗号通貨が面白いのは、お金に換算できないものも交換しやすくなるからです。日本は経済価値があるコインを作ることを規制しようとしていますが、僕はお金に交換してはいけないというコインを作る実験をしようとしています。そのコインはお金で買えるものにはあげられない、無料のものだけが買えるというコインです。プロのコンサルタントには渡さないけれど、アマチュアのギタリストの演奏には渡せるようなコインです。ただこれはこれで価値が生まれてくるのです。このコインがハイコンテクストなものになるかどうかは分かりませんが、アンチ経済の動きの中で規制不可能な流動性が広がっていくトレンドが出てきています。