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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

文系と理系の話に移ります。これは先日noteで公開して反響が大きかったテクストをもとにした話です。

「自然言語と法」。世の中はプログラミング言語では出来ておらず、人間社会は自然言語の曖昧な運用によって出来ており、そこには二重性/多義性が必ずあり、それらを飲み込む無意識のルームが必要であるという話をしてきました。ですが、自然言語でも厳密さを要求される形態があります。法です。自然言語の一つの究極形態は法です。法はどう解釈されるかによって人命が左右されるという意味で非常にシリアスなものだからです。法が非常に興味深いのは、法に逆らってはいけないものを定めるにも関わらず、一部の文言を除いて、一義的なものではありえないということです。必ず概念には解釈の幅があって、C言語やPythonで命令を送るようにして法が人を従わせるようなことにはなりません。やってはいけないことが必ずしも一義的には決まっていないのです。法には必ず解釈が伴います。自然言語においては語の定義というのは絶対的に固定することは出来ず、自然言語の文においては常に解釈可能性が伴います。およそ常識的に考えられる語の意味はありますが、その場合においては常識を与えているマクロな文脈が存在していて、国が違えば常識が変わる可能性はあるし、或いはその常識がローカルな集団の常識である可能性もあります。いずれにせよ、我々が「これが普通だろう」と特定の時点で思う語の意味は、何らかの限定された範囲での最大公約数的な意味であるということです。

そうすると一定の法的言明について、二つの思考の方向性があり得ます。一つは、法的言明の根拠を掘り下げる思考です。その法は本当に正しいのかと、根拠を問う思考です。先ほども言ったように、根拠を問う思考は原理的に無限の遡行が可能です。なおかつ、ある法がどういうケースに適応されるのかという適応事例を挙げる思考も原理的に無限に可能です。したがって常識の範囲内でこれらの思考を仮固定する必要があるのですが、そのために必要なのは判例に依拠することです。『勉強の哲学』においては、根拠の遡行のことをアイロニーと呼び、適応の拡大のことをユーモアと呼びました。縦方向のアイロニーと横方向のユーモアが無限に可能であるのは、自然言語においては語と指示対象が絶対的な一対一関係にはならないからです。それに対して人工言語は、電気信号の制御と直結したプログラミング言語のように、一対一対応の命令の連鎖であり、そこには曖昧さはありません。なぜそうできるかと言えば、それが解釈される場即ち定義の空間が狭く厳密に固定されているからです。自然言語の場合は一つの語が複数の文脈を移動して別の定義に入る可能性が生じるのに対して、人工言語の場合は一つの語は定義と一致するのです。

かつて学術的な会話に用いられる言語を一義的なものに改造しよう、という理想言語プログラムのようなことを考えた人たちがいましたが、その試みは失敗に終わりました。自然言語における法はいかなる定義とも完全に一致しない「余り」を有していると言えます。

理系の議論の場合は、先ほどの「唯一正しい」と言ったら例外を認めてはいけないという例のように、論理的に余計なものを挟まない推論が好まれます。理系の場合は論理を純化しようとして、出来る限り日常会話においても一義的になるように話を進めようとしたがる人が多いと感じます。それに対して文系の課題となるのは、現実的な有限性との妥協によって、多義性を縮減することです。自然言語はいくらでも解釈可能で、極端な例ではルイス・キャロルの言葉遊びのような状態になってしまいます。ですが特定の文脈を設定することによって、特定の状況下における語の意味を限定/仮固定をすることが、文系のポイントになります。ですが、仮固定はあくまで「仮」固定にすぎず厳密に固定されてはいません。このことがしばしば文系と理系の齟齬を生みます。この課題が最もクリティカルになるのが法解釈の場面です。法解釈においては様々な条件によって限定された法解釈を成立させることになります。それによって人命が左右されるのですから、法学こそが文系の王であると言えると僕は思います。それに対する闇の王が文学部です。なぜかと言うと、もし現実的な有限性即ち文脈の条件を無視するのであれば、意味はルイス・キャロル的に崩壊する、という地獄にまで考察を進めるのが文学や哲学だからです。

ところが法学部では、言語が意味を失うような極限については「否認」して事にあたります。そこまで視野に入れた上で、諸々の限定的な言語運用の集合を取り扱うのが、より広義の文系的思考であると言えるでしょう。文系は意味を無限に開くカオス化の方向を持つ一方で、理由を一応提示はするがその根拠付けは根本的には非合理的であるような仕方で有限化するしかないことを認める、という二重性を持ちます。少しまどろっこしいですが、自然言語の意味は無限にまで発散してしまうが故に限定する必要がある。だがその限定の根拠は無限退行するから、あるところで「そうだからそうだ」と根拠の遡行を強制的に止める必要があるということです。

この強制がなかなか働かないのがネット上です。ネット上では、アイロニーのひたすらの掘り下げ、即ちクソリプ的な根拠の遡行が無限に起きます。或いは、「それはこれについても言えるんじゃないですか」「もっと例外があるんじゃないですか」といった適応例の横滑りの無限化が起こり、そうしたツッコミが時間の限り行われて、元の主張を徹底的に掘り崩そうとするのです。こうした現象が起きるのはなぜか。対面じゃないからです、身体がないからです。そう僕は思っています。

経験的な話になりますが、相手の主張の根拠を無限に掘り崩していって「あなたの主張には根拠がない」と言うようなことは、人と人が生身で向き合っていたら起きないでしょう。目の前に身体があるときに、そこまでは言えない。身体がストッパーになります。ところがネットの空間には身体がありません。身体が持つ力というのが人間社会を根本のところで支えているのです。そこに人間の尊厳や礼儀、暴力、国家、デモといった問題群が関わってきます。有限化の根拠としての身体が実空間には存在しています。それが存在しない「かのような」理想空間がネット上にはあるから、アイロニーとユーモアのお喋りが止まらないのです。そういう人たちが最初の発言者に対して言いたいのは、要するに「お前なんて消えてしまえ」ということです。お前の身体なんて認めないぞ、ということです。当然ネット上ですから僕の身体はそこにはありません。そこにさんざん突っ込みが入ることで、僕の身体、存在を認めまいとするという事態が上演されるのです。僕は時々Twitterで「あなたと実際に会って直接お話すれば誤解は解けると思います。僕はそのことに楽観的です」と言いたくなります。会えば話が分かる、なぜなら身体が有限化をするからです。話が分かることと納得することは別かもしれませんが、ともかくお喋りが止まるには止まるのです。そしてこの「止まる」ということが社会の運営においては非常に重要です。だからやはり僕はコロナの状況とはいえ、重要な会議では対面で人が会うことが非常に重要だと思います。

このような有限化/限定化の背後には、「そうだからそうだ」としか言えないような非合理性が控えているのだ、という自覚を持っていることが文系の本質だと思います。有限化は根本的に非合理的であるという自覚です。有限化は言ってみれば、精神分析のタームの「禁止」です。