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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

波頭 神保さんはいかがですか。

神保 私は日本とアメリカの政治を長く取材しております。千葉さんのお話を聞きながら、ブラックリストとホワイトリストの話を考えていました。民主党政権への政権交代以後という意味も含めつつシンボリックには安倍政権になってから浮上して来た問題です。一言で言えば、やっていけないと書かれていなければやっていいのか、イギリスのコモンローのように書くまでもないから書かれていないものがいっぱいあるのか、という話です。

自民党が政権交代をする前は、書くまでもないから書いていないことをやっちゃおしまいよ、という感覚がありましたが、一度政権交代を経験していつ野党に転落してもおかしくないという中で誕生した安倍政権下では、突然書かれていないことはやってOKとなりました。

例えば国会の同意人事という慣習があります。独立行政委員会/三条委員会と呼ばれる委員会や、公正取引委員や原子力規制委員、NHKの経営委員等は全て同意人事でして、同意人事において不文律ながら最大野党の賛成を取ることが慣行でした。多数決や過半数ではなく同意人事となっていたのは、そういうことを意味していたのです。NHKの年間の予算も同じです。過半数の議席数だけでは国民の27%程度の票の裏付けしかないから同意人事を行っていたのですが、実は同意人事という慣習はどこにも書かれてはいないのです。

安倍政権になってから同意人事が形骸化しましたが、誰もそれを問題としませんでした。書かれていないのだから問題にしようがない、と。日銀の総裁も同意人事でしたが、いまは与党の賛成多数で決定するようになりました。同意人事の慣行が破られたことによって、最高裁の判事も内閣の指名によって決まるようになりました。判事へのチェックが唯一入るのは国民審査の時のみです。ですが国民審査の対象となるのは、判事が指名された最初の総選挙のタイミングです。今回は4年間選挙が無かったので、15人中11人が審査の対象になっていました。そのうち4人は重要な決定にはほとんど関わっていない4人で、評価のしようがありませんでした。残りの7人は一票の格差や夫婦別姓の判決に絡んでいたので、罷免要求率に多少のデコボコは出ましたが、そもそも罷免になるには50%の要求が必要なので、ほとんど意味がない制度となってしまっているのが実態です。国民審査は内閣による最高裁判事の任命の是非を審査する制度であって、判事がどのような判決を出したのかを審査することは目的ではないというのが法律の趣旨になっているために、任命直後にやることになっているのです。

一度審査を受けると次の審査は10年後なのですが、最高裁判事は60歳以上の人が任命されることになっていて70歳定年であるため、2回審査を受けた人は少なくともこの30年間では一人もいません。任命された直後にほとんど材料もないままに審査を受けて、それっきり10年間何もなく勤め上げることになっているのです。官邸が長官の指名権を持っているために、最高裁は官邸を物凄く意識しています。

知財も行政裁判も何もかも全て最高裁が一手に引き受けているので、最高裁は年間1万5000~2万の決定をしています。最高裁には3つ小法廷がありますが、判事が8時間のフルタイム勤務をするとして単純計算すると一つの決定に一人当たり20~40分の時間しか割けません。そんな短時間では判決文を書けるはずがなく、実際は判事の下にいる調査官が判決を書いています。そして長官は過去何代にも亘って調査官上がりの人物が任命されているのです。

憲法自体が形骸化している以前の問題として、司法が政治の中に完全に握られている中で、政治がこれまでは「それをやっちゃおしまいよ」という線を守っていたのですが、政権交代後の2012年の安倍政権誕生以降は事細かにやってはいけないことをブラックリスト化しないといけない状況になっています。日本の法律はそれを前提としていないものがほとんどなので、いくらでも抜け穴が見つかります。

先ほど中島さんがお話していたように臨時国会を開く日付を明確に書かなければならなくなりますし、公文書管理法や情報公開の基準も非常に恣意的な解釈が可能になっているので真っ黒の文書を出せてしまう現状があります。情報公開の除外対象であることの挙証責任が行政に課せられていないのです。アメリカでは情報公開を除外できる7つの項目がありますが、その7項目に該当することの挙証責任は行政に課されています。もし異議申し立てをした場合には、インカメラ方式で裁判所は中身を見た上で適法かどうかを判断します。日本ではインカメラが認められていないので、公開しなかったことの判断を出来る人がいません、だからこそいくらでも文書を黒塗りにしてしまえばいいとなっているのです。ブラックリスト・ホワイトリスト問題がここに来て非常に重要になっているということを、高次元でお話して頂いたように感じました。

波頭 中島さん最後にいかがでしょうか。

中島 自分の中にリビドーのようなよく分からないものが存在しておりそれに突き動かされて生きているというようなことを精神分析が扱ってきたというお話でしたが、こうした内在の問題に対して超越の問題を千葉さんはどのようにお考えですか。つまり、浄土真宗であれば他力という如来からやってくる力に動かされて人が生きているような世界観が語られますが、そういう内在に対する超越の問題についてのお考えを伺いたいです。

千葉 「バク転する阿弥陀仏」というテクストの中で、物を書く時には他力に自分が貫かれるという話をしています。その際、他力を自分の中にある人間の認知的過剰さとしてのリビドーとほとんどイコールのものとして考えています。その意味で超越は内在し、内在は超越すると僕は考えています。ただ浄土真宗の方々は阿弥陀を絶対的な超越として一神教的に捉えているので、この話をすると異端になってしまうのですが。