波頭 團さんはいかがですか。
團 私は文科系の学生に建築を教えています。建築の設計教育はドイツや日本では工学に属することが多いですが美大・芸大に属することもありますし、アメリカや英国やフランスなどでは建築学部として独立しており理系にも文系にも分類されていません。都市や建築は理科系的な説明がなされることが多いですが、我々は建築をやっていて理科系という意識はあまり持っていません。もちろん構造力学的な話はありますが、それは全体の中のごく一部にすぎず、むしろ技術を統括する能力とアートの素養と理念が重要です。また現実の建築や都市はどちらかといえば経済や政治の影響を受けるという意味で文系的に動いています。昔の建築家は都市を機能主義的に工学的な機械のように捉えて完成予想図を重視していましたが、現在の東京の完成図は書くことは誰にもできません。我々の身体に完成図がないのと同じです。
建築言語という言葉があります。建築家にはそれぞれの個人的な癖があると同時に誰もが暗黙のうちに守る文法あります。例えばギリシャ以来、古今東西の門の柱は奇数スパンが当たり前です。偶数スパンだと真ん中に柱がきてしまうからです。法隆寺の中門だけは魂を封じ込めるために真ん中に柱を置いたと梅原猛先生が指摘していましたが、でもギリシャのパルテノン神殿をはじめファサードや門の真ん中には柱が無く人が通れるようになっています。構造力学の観点からは門の柱は偶数スパンでも問題はありませんが、偶数スパンの門には違和感を覚えるのです。理屈抜きに「これはこうなんだ。」という事柄の例です。
波頭 中島さんはいかがですか。
中島 今日のお話で重要なのはお話の構造だと思いました。冒頭で多義性の弱体化によって世の中が一義的になってきて言葉の幅や複雑性が理解されていないという問題が提起された上で、しかしその後に「そうだからそう」としか言えない無根拠な枠付けこそが「儀礼」として重要であるという話がありました。一見すると逆のように聞こえる話が直接的に繋がっているお話の構造だと思いました。これは非常に重要な逆説だと思います。
その後に法の話をされていましたが、憲法と安倍内閣という問題と繋がっていると思いながら聞いていました。憲法はある種の無根拠な枠付けがある「儀礼」です。憲法97条は非常に興味深く、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と書かれていて一種の儀礼性を持っていると言えます。憲法は無根拠でありながら民主主義を上回るものです。半分以上の生きた人間が賛成であったとしても「これはやってはいけない」と信じているのが憲法なので、憲法の強烈な禁止性の根拠はどこにあるのかという大きな問題と関わってきます。
日本国憲法は英米法の影響を受けていると言われますが、他国の憲法と比べてかなり短い憲法です。短い憲法の性質として、憲法として明文化されていないものも含めて憲法であるという共通認識があることが挙げられます。例えば53条には臨時国会はいずれかの議院の総議員の四分の一の要求があれば開かれなければならないと書かれています。ですが安倍内閣も菅内閣も臨時国会を開きませんでした。何日以内に臨時国会を開けと憲法には書かれていないということをもって臨時国会を開かなかったのです。しかし、自民党を含めて戦後憲法を運用して来た人々は、概ね20日以内には臨時国会を開くものだとして、書かれていない文言を読み込んで慣習として運用してきました。そういうことが出来ない内閣が安倍内閣でした。複雑な話が出来ないことと儀礼性を守れないということにおいて、安倍内閣の在り方、日本や世界の在り方には通底した問題があるじゃないかと思いながら聞いていました。この辺りについて千葉さんはどのように見ていらっしゃいますか。
千葉 仰る通り、憲法は儀礼的/慣例的な積み重ねによる透明な肉を持っていて、明文化された憲法の文言はあくまで骨格にすぎません。もちろん、憲法に書かれていないということは規定されていないのだという解釈は可能です。自然言語による記述に含まれる曖昧さに対して、文字通りに解釈をすることでコンテクストを無視する挙措です。学術会議の任命問題のように、今までの慣習を無視することは可能なのです。
そういう剥き出しさが色々な場面で噴出して来ていると思います。「書いてあるからやっていい」「書いてないからやらなくていい」ということは「リテラル化」の兆候で、それを利用することで好き勝手やることが見られるようになってきています。そういうタイプの狡さが今日は「知性」と呼ばれているように感じます。
波頭 まさにそれはいまの世の中の問題の本質だと思います。いま千葉さんが言われた「知性」こそが世の中の反知性主義の正体だと思います。会話や建設的な議論のベースになるのは“principle of charity”と呼ばれる善意の解釈であり、より良い結論や認識をお互いが得るために必要なのは誠実さと教養です。
社会が合理性を追求していった結果としてほとんどの人が幸せにも豊かにも自由にもなっていないのは、反知性主義的なものが知性とされていて誠実さと教養が欠落していることが本質的な原因だと思います。臨時国会の話も憲法解釈の話もそうだと思います。全ての法案をデジタル化して意味のずれが無いように記述することは不可能ですから、法の運用には誠実さと教養に基づく本来の知性が不可欠なのです。
千葉 寛容の原則を持たずに裏をかくような狡猾な言語解釈が蔓延し、常に言質を取ろうとするような空気が強くなっている。例えばコンビニでたばこを買うときに年齢確認のボタンを押させるのは言質を取ろうとする行為の一つですね。
波頭 「はい、論破」という表現はシンボリックですね。自分のリテラシーの中で論破した気になっていて全然論破ができていない状況でもピリオドを打ちたがること自体が、寛容の原則を欠いている証拠だと思います。
千葉 グローバリズムが広がってヒトやモノの流動性が高まり世界中を駆け巡っています。そうなると物事が脱文脈化することになります。特定の文脈化でしか認められなかったもの、売れなかったものが世界中で商品化されるようになります。
波頭 世界のアメリカ化ですね。
千葉 そうなんです。世界中が無根拠化してゼロから作られた国のようになっていきます。アメリカは火星に植民することを想像する国ですから、アメリカ発のグローバリズムが世界を火星化する中で豊かな背景に基づいてのcharitableな解釈が成り立たなくなり、その場その場での刹那的な言質を取っての契約が主流になっていきます。殺伐たる荒涼たる風景だと思います。
波頭 ただ創業期の理念が“Don’t be evil”であったGoogleのように、漂白化したからこそ生まれる純化したものもあります。
千葉 もちろんそこで面白いハイブリッドが生まれることも重要です。