次に「無意識の消滅」についてです。近年は「苦痛だが楽しい」という二重の態度を取ることが難しくなってきていて「嫌なことは嫌」だという分かりやすい態度が支配的になってきています。特に性的な問題に関して「嫌なことは嫌」という態度が強まってきていると思います。
しかしながら、そもそも性的関係は根本的に嫌なものです。もし性関係が快楽になるとしたら、嫌なものが快楽になるというねじれが必ず含まれているはずです。性関係が夏の青空の下にいるようなハッピーな行為になることはあり得ません。そこには必ず二重性があります。
ですが、そのような否定と肯定を二重体として保持するような心的空間、即ち無意識が失われていき、「愛しているから憎い」、「憎いからこそ愛する」といった事態が成立しづらくなってきています。自分の行為は明晰な意識によって主体的に決定したものであるという「明るい意識の主体性」が全面化してきていて、自分の中にある何か分からないものが自分を突き動かして自分は何かをやっている、自分が意識的には認めたくない理由があって自分は行動している、といった自分自身の受動性を認めるような意識が弱くなっているのだと思います。例えばLGBTの問題に関しても、自分がこう生きるからこうなんだ、といった感じが強くなってきていて、「やむにやまれぬ性」が十分に考えられていないように思います。
否定性を織り込みながら生きることが拒否されているのです。例えば今日では反出生主義という哲学的議論があります。反出生主義を主張するある南アフリカの哲学者は、「生まれ落ちてこの世で経験することは苦痛ばかりであり、思考実験の結果、マイナスの方が大きい、だから生まれてこない方が良い」と主張しています。この哲学者がどれくらい本気で言っているのか、或いはこのことをもって一体何を主張しようとしているのか(例えば子供を産まない方がいいのか)といった厄介な点はありますが、こういう発想が出てくること自体、苦と共に生きていくという二重性が認められなくなっていることの証左だと思います。
苦痛は減らすべきであるとするイギリス的功利主義が広まっているのです。最近のイギリスではタコやイカは苦痛を感じるから茹でてはいけないという議論も出てきているようで、やはりイギリスはベンサムの国なのだと感じます。
他方で、フランスにはドミニク・レステルという非常に面白い動物論を専門とする哲学者がいて、「肉食の哲学」を掲げています。レステルは、「肉食は人間の義務である」というテーゼを打ち立てています。肉食を義務とまでは言わなくていいだろうという気がしますが、やはりキリスト教の国だと感じます。一方でダメだとなると、他方で義務だとして対抗しなければならなくなるのです。もう少し「あいだ」があるんじゃないのと僕は思います。
徐々に「否定性を織り込みながら生きていく」というテーマに近づいてきていますが、ここまでの話を一言でまとめると、物事の「苦味のある旨さ」を語る事が難しい時代になってきているということです。苦痛が反転して快になるという現象は、精神分析の言葉ではマゾヒズムと言います。いまの学問分野で、人間における否定性の重要性を主張できるのは精神分析学くらいですが、精神分析学は学問だと思われていないので、アカデミアでは「否定性」を扱うことはもう無理だという感じがしています。大学人としてまっとうだと思われたければ、「苦痛を減らしましょう」、「人に迷惑をかけないようにしましょう」、「とにかく嫌なものを無くしていきましょう」といった話をする必要があり、それがインテリとしての正しい態度だと思われるようになってきているのです。