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多義性と非合理性

キーノートスピーカー
千葉雅也(哲学者)
ディスカッション
波頭亮、伊藤穰一、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎

ここで一人の名前を出そうと思います。レオ・ベルサーニです。ベルサーニはアメリカのゲイの文芸批評家です。90年代初頭、まだカクテル療法が発明される前にAIDSパニックが起きて、セックスはもう出来ないという空気が広がりました。その時に、ベルサーニはそれでもなおセックスをするのだと自粛に抵抗をしました。そのことが書かれたテクストが「直腸は墓場か?」という強烈なタイトルの論文です。論文の冒頭に提示されるテーゼは「セックスには重大な秘密がある、それは誰もがセックスを嫌っているということだ」です。なぜそう言えるのか。ベルサーニはゲイのウケの立場のセックスの話を展開しています。セックスは他人に侵入されて自己が破壊される行為であり、主体性が奪われる状態に陥ることを本当はみんな恐れているのだが、その事実を抑圧しながらセックスをしているのだとベルサーニは言うのです。

ベルサーニは『フロイト的身体』において、第一次的マゾヒズムという概念を定義しながら、フロイトの「マゾヒズムの経済論的問題」やナルシシズム論などを用いて議論を展開しています。フロイトが人間を対象に考えていることをベルサーニは生物一般に拡張しています。人間は生命体として、音が聞こえる、温度の差を感じる、といった刺激を感じますが、そうした刺激は言ってみれば苦痛です。その苦痛を何らかの形で耐えられるものに変換して、その変換によって人間の思考や情動が構築されていくのだとベルサーニは主張しています。つまり生きるプロセスそのものが根本的なマゾヒズムであり、とりわけ「性」はマゾヒズム無しには成り立たないという議論をベルサーニは展開しているのです。

このベルサーニの議論を援用しながら書いたのが、『勉強の哲学』です。そこでは「勉強とは自己破壊である」というテーゼを出しています。主体の同一性が保持されたままで新しいスキルや知識が付け加わるような勉強は本当の勉強ではなく、根本的に自己の価値観が突き崩されるような勉強こそが本当のラディカルな学びなのだという主張をしました。つまり、学びのプロセスには一種の喪失があるのです。

ある程度までの勉強は仕事の役に立ったり就職に有利だったりするので、親は子供に勉強をしろと言いますが、ある程度以上の危険な勉強はみんな恐れているのです。なぜかというと勉強が自己破壊につながるからであり、そうなると社会に適応できないヤバい人になる可能性があるからです。このあたりの話はベルサーニのマゾヒズム論を念頭に置いて書きました。

行動できることの範囲がある程度決まっている動物と違って、人間の行動には可塑性があります。人間は思考の空間を展開することによって、一つの対象について様々な事を考えることが可能になります。80年代に「人間の過剰さ」に関する議論が流行しました。当時はバタイユの議論を踏まえて、「ハレとケ」といったことがよく話題になりました。当時の議論が現代では再び重要になっていると僕は思っています。

人間が持っている認知機能の過剰さを、人間は一定の範囲に制限する/有限化することによって、主体化/社会化しているというベーシックな描像があります。人間は、何か一つのことをやりながら余計なことを考えたり、連想が働いて嫌なことを考えてしまったり、自分の中に常に「影」があります。つまり、いま明晰に/意識的に行っていること以外のことが自分の中に湧き出てしまうのは、いまの自分の意識を否定さえする過剰な豊かさを人間が持っているためであり、人間が否定と肯定の二重性/多義性を生きることが出来るというのは、神経的な豊かさ/流動性があるからです。人間は行為と認知が一対一的に決まりきっていないので、制度的に有限化しないとまともにはならないのです。