ここで大胆に理系と文系の対比をしてみます。
理系は一定の定義に基づく推論の結果、より可能なことを増やしていこうとする学問です。或いは特定の理由を与えることによって、しない方が良いことを推奨することもありますが、この場合もあくまで推奨であって禁止ではありません。理系は出来ることの可能性を広げるものです。
ですが文系の本質は禁止です。ただそう言うと文系は嫌われてしまうため、普段はそのような自己提示はしないものの、これは世界の重要な秘密です。いかなる禁止であれ禁止の絶対的根拠は存在せず、究極的に言えば「そうだからそうだ」としか言いようのない非合理的なものであらざるをえません。ちなみにこれは僕の完全な独創ではなくて、禁止の非合理性が極めて重要であり、科学的探究の根底にすらあるのだと言ったのはピエール・ルジャンドルです。ルジャンドルはラカン派の精神分析の影響を受けた人類学者です。一時期はアフリカに赴任し、現地の歴史と西洋の関係をみた上で、西洋近代がどのように成り立っているのかについて、ローマ法から遡って検討している人です。フランスでは保守論客として知られている中々厄介な方です。例えばフランスでは同性婚が法制化される前からPACSというパートナーシップ制度がありましたが、PACSで同性愛者が結ばれることにルジャンドルは反対しました。彼の言うことでカチンとくることもありますが、本質をついた発言も多く、無視できない存在だと思います。
科学による合理的な禁止は真の禁止ではありません。それに対して例えば宗教にみられる食物の禁忌は真の禁止だと思います。それは「ダメだからダメ」だからです。そういうドグマティズムは前近代的だから廃止していくべきだというのが近代主義なのかもしれませんが、少し考えてみれば日常には十分に合理化できない「やらないでおこう」ということが至る所に溢れています。無根拠な禁止が我々の生活を彫刻刀のように刻んでいるのです。日常の輪郭は無根拠で偶然的な有限化によって塑型されています。文系はその事実を侮りません、ここが重要な点です。ある種の科学的進歩主義者はしばしばこの事実を侮りますが、侮らないのが文系の思考なのです。
しかし禁止が「ダメだからダメ」だと一足飛びに剥き出しの形で提示されることは、通常はありません。そう言われるのは親に怒られる時くらいでしょうが、最近の親は子供に対して必ずダメな理由を提示するという話を聞きます。子育てをしている僕の妹も、子供に不合理なことを言わないようにすると言っていました。アクティブラーニングのようなものが家庭生活にまで蔓延している世の中です。
ともあれ通常は理由の平面が設定されます。ですが「こうだからダメ」という理由の平面には常にアイロニーとして懐疑を向けることが可能です。そうすると更に深いレベルでの理由の平面が再設定されますが、それにも更に懐疑を向けることができ…以下同様に続いていきます。なお、文系の本質が禁止だというのは、禁止をすること自体が文系の本質なのではなく、禁止という現象を取り扱うのが文系の本質であるという意味です。禁止することが務めなのではなく、我々はしばしば禁止せざるを得ないことがあり、その際に禁止を巡る言語表現、合意、解釈、範囲を慎重に取り扱うことに文系の使命があるということです。
何を禁止して何を許可するかは単なる理性的推論では導くことが出来ません。根拠を合理化することが出来ないためです。つまり根本的にはそこには真の意味での利害対立があり、政治があるということです。推論より先に政治があるということです。ですが剥き出しの政治が常に起きているわけではありません。政治的綱引きは、常に仮固定された理由の平面を何枚か上下に行き来することとしての議論を、アイロニカルに言えば偽装して行われています。その理由の平面を剝いてみれば、その根本にあるのは何を是として何を非とするかという政治的対立です。ですがそれを剝き出しにしてしまうと世の中が対立的になりすぎるので、儀礼の空間を創り出すことで「まぁまぁ」という共存が可能になるのです。こうした仕組みの運営にあたることも文系の使命の一つになります。