文系は何の役に立つのかと揶揄されがちです。文系の学問をやったところで、VRも作れなければ、ロケットも飛ばせないだろう、と。これに対して文系の研究者は「批判的に考える」ことが大事だと言います。国家や資本主義を批判したり、そもそも役に立つこととは何かを問うたり、或いは想像力を広げて芸術の豊かさに気づいたりする、そういう弁護をします。僕はどれも弱い弁護だと思います。僕はシンプルに、理系は「こうできる」と示したことに対して、文系は「法によって禁止することができる」と言うことで、文系の明確なポジションが示せると思います。ただそう言うと人を苛立たせることになるでしょう。或いは、人間的事象について理系がエビデンス主義により「こうだ」と示すことに対して、「それは限定的な範囲での解釈であり解釈は無限にカオス化できる」と文学部的な極論を言うこともできます。しかし、これも人を苛立たせることになるでしょう。
ともかく人間社会はプログラムで動いているのではなく、法解釈で動いています。根拠の掘り下げに関わるアイロニーの側面が批判的思考やそもそも論と呼ばれ、適応範囲や例外を考えるユーモアに関わる側面が想像力と呼ばれます。このような特徴付けが可能になるのは、文系学問は、思考の背景は非合理性が不可避的に存在することを自覚しているからです。ところがこの非合理性という概念に正面切って依拠することはまさに「非合理」であるが故に、反発を招くことになるでしょう。
いずれにせよ今日の社会では平板な合理主義が一般化して、明確なゼロイチ/白黒で結論を出すことがよしとされています。感情や倫理の問題においても、不快なものを退けて安心で快適になることがよしとされるような単純な整理がまかり通っていて、それこそが正義であり、インテリのクリーンな態度であり、といった意識が醸成されています。これに対して、二重性や多重性が世の中にはあり、そのことは単純な合理化が覆い隠している根拠なき有限化が人間の思考や行為を支えていることを改めて自覚することで、現代社会の様々な現象が理解できるようになる、というのが僕の結論です。