波頭 今の日本社会はわずかな富裕層を除いて誰も豊かになっていないのに、豊かになっていないというメタ認知を人々が持ちづらくなっています。豊かになっているような気分でいながら、実際には不自由に不幸になってしまっている人が多数存在する日本という国は、もう限界まで来ているのではないかという問題意識がこの場では共有されています。
今日の千葉さんのお話はその本質を見事に語られていたと思います。象徴的には、多様性と言いながらも画一化して窮屈になっている、言うなれば画一化された多様性の世の中の流れになっているという点です。
闇の王が文系であるという話が出ましたが、私も最近書いた本で文学部的なるものが世の中を変えるべきだと主張しました。シンプルでプラクティカルな理系的正しさによって世の中が押し流されていて、もしその理系的正しさが善意の理系的正しさであれば問題はないのですが、理系的正しさの背後にいるのは闇の魔王である資本なのだと思います。平板な資本合理性が分かりやすい正しさとして世の中を覆ってきていることに対して、この会は問題意識を持って議論をしてきました。千葉さんのお話を聞いていて、まさにそうだそうだと身体的に頷きました。
皆さんからのご意見、ご感想がありましたらお願いします。
茂木 男性がドラッグをやってバッドトリップしやすいのは、男性がウケの立場として快楽をコントロールされることに慣れておらず、抵抗をしてしまうからなのだという説を聞いたことがあります。自分がコントロールする側なのかコントロールされる側なのかという点は、セクシュアリティに限らず大きな世界観の差に繋がるような興味深い話だと思います。
禁止の話について、脳科学では自由意思論と因果的決定論とどう両立させるかという難題がありまして、一般に自由意思は拒否権の発動という形で定式化されます。つまり選択肢自体は無意識的に脳に浮かび上がってくるが、その選択肢を禁止/拒否することに自由意思があるという立論です。だからこそ、禁止/拒否をしなかった事実によって犯罪の責任が問われることになります。このように禁止の話は深い話だと思います。
波頭さんが先ほど資本主義の暴走の話を出されていましたが、禁止がないことが様々な問題を生んでいると思います。かつて聖なる森を開発しなかったのは禁止が機能していたからです。リバタリアンや新自由主義の基本的な問題点は、適切な禁止が無い事だと思います。
千葉 そうですね、「理由がないなら全てやっていい」となっています。そして理由はいくらでも掘り崩すことができる。
波頭 千葉さんの言葉を使うと、無意識の合理性を資本が踏みにじっているのだと思います。定式化しやすいタンジブルなものだけを重要視して、無意識のような単純な合理化が難しいものを捨て去るから禁止機能が損なわれてしまうのでしょう。
茂木 改めてセクシュアリティに限らずウケの視点は大きな話だと思いました。
千葉 僕の話は禁止する立場というより禁止される立場の話です。我々は禁止を身に引き受けることによって主体化されるということです。禁止する側のパターナルな立場の議論ではなく、全体的にウケ的な議論ですね。
伊藤 日本とアメリカを比べてみると、日本の方が根拠なき禁止が美学として成立してるように思います。例えば日本のヤクザのような組織では暴力的な禁止を押し付けることが男らしいとされますが、アメリカの男らしさはそこにはありません。日本人はこうした暴力的な禁止を押し付けられて育つことで静かな大人になっていきますが、アメリカは子供から大人になるまで禁止を受けずに育つことが多いです。この禁止の有無が国民の差になっているように感じます。
波頭 アメリカはバックグラウンドが違う人が多く、多様な言語や文化、価値体系を持つ人がいます。その中で共有できるのは平板なロジックだけだという現実があると思います。
伊藤 だからこそアメリカには弁護士が多いわけですね。
千葉 アメリカはそもそもヨーロッパの父権から脱出した人々によって建国されたという歴史的文脈もあると思います。
伊藤 たしかにヨーロッパにもヤクザ的な根拠なき禁止がある気がします。アメリカが特殊なのかもしれません。