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ゲノムが変える歴史学:ペーボさんが開けた歴史の扉

キーノートスピーカー
西川伸一(生命科学評論家)
ディスカッション
波頭亮、島田雅彦、神保哲生、團紀彦、中島岳志、西川伸一、茂木健一郎、山崎元

キーノートスピーチ

波頭:本日は「ゲノムが変える歴史学」というテーマで、今年(注:2022年)のノーベル生理学・医学賞を受賞されたスバンテ・ペーボ(Svante Pääbo)さんの研究について、西川伸一先生からお話をいただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

西川:よろしくお願いいたします。今回のスピーチの初めに申し上げておきたいのは、ペーボさんのこの研究がノーベル賞を受賞したのは、きわめて画期的な出来事だろうということです。

ペーボさんの取り組みは、一言で言えば古代ゲノムの解析です。医学界の口さがない人たちは、ともすれば「そんな研究が何の役に立つのか」などと言いがちです。しかし私に言わせれば、ペーボさんの研究結果は、歴史学の常識を根本から覆し、これまで考えられた人種や民族の違いといったものがいかにナンセンスであるかを明らかにするインパクトを持っています。ある意味では世界を平和に一歩近づけるかもしれないこの研究が今回賞を得たことは、私はたいへん注目に値すると思っています。

さて、話の初めにまずは、今回ご紹介するペーボさんという方がどのような人物なのか、かいつまんでお話ししましょう。

ペーボさんは、日本では『ネアンデルタール人は私たちと交配した』(野中香方子訳、文藝春秋、2015年)というタイトルで翻訳が出版されているNeanderthal Man: In Search of Lost Genome (Basic Books, 2014)という自伝的著書の中で、ご自身のバックグラウンドについて書いておられます。ペーボさんのお父さんはスネ・ベリストロームというスウェーデン人の生化学者で、実はこの方もノーベル生理学・医学賞を受賞しています。そのお父さんと、同じ研究所で働いていたラトビア人のお母さんの間にできてしまった子どもが、スバンテ・ペーボさんだったそうです。

さらにペーボさんはこの自伝の中で、自身がバイセクシャルであることを臆することなく語っています。また、ペーボさんには奥さんもお子さんもいらっしゃるのですが、その奥さんはもともと同僚の夫人だった方を口説き落として結婚した人だ、といったことまで書いています。そういうことを自伝の中で赤裸々に告白されておられる方が、2000年以降の新しいマックス・プランク研究所の歴史を作ってこられたという、そのオープンさは目を惹くものであると感じます。

それで、今回ペーボさんはどのような理由でノーベル賞を受賞されたのか。ノーベル財団は受賞理由として3つのことを挙げています。

1つは、何万年も前の古代のDNAを解読できるようにしたことです。ゲノムサイエンス(というか科学全般に言えることですが)には結構いい加減なところがあって、たとえばマイケル・クライトンの『ジュラシック・パーク』が1990年に出版された後には、その作中の手法をなぞったやり方で古代のDNAを取り出してみたといった内容の論文がどんどん出て、しかもそれがトップジャーナルに掲載されてしまうといった状況もありました。科学者が小説家のマネをしてどうするんだと、個人的にはやれやれと思ったりもするわけですが、その点ペーボさんは実に緻密で精細な解析に取り組みつづけていて、そこが高く評価されたというのが、まず1つ目の受賞理由になります。

ベーポさんの研究チームの論文を読んでいると、これはもう情報科学の極致と言ってもよいのではないかという印象さえ抱きます。さながらクロード・シャノンの情報理論を読んでいるかのような気になるんですね。DNAというのは時間の経過とともに分解していきますし、アミノ酸もどんどん外れ落ちていきます(deamination)。そのように経年劣化したノイズだらけのDNAから新しいものを見つけようとしたり、あるいはPCR法をまったく使わずに、見つかった骨から人間のDNAだけを取り出して全ゲノム解析を実施したりといった、緻密な努力を地道に積み重ねて成果を出してこられた。こうしたチャレンジが評価されたことが、1つの受賞理由になりました。

2つ目の受賞理由は、デニソーワ人というこれまで知られていなかった人類の発見です。ネアンデルタールでもホモ・サピエンスでもない第3の人類の存在が、ペーボさんたちの研究によって明らかになったのです。シベリアのデニソーワ洞窟で見つかった小さな指の骨を調べてみたところ、そのDNAはネアンデルタール人のそれともホモ・サピエンスのそれとも違っていて、そこからデニソーワ人の存在が明らかになりました。3種類の人類は約90万年前に分岐して、およそ5〜6万年前から1〜2万年の間、ヨーロッパやアジアで同居していたと考えられています。

そして3つ目、これが受賞理由の最も大きなものですが、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人およびデニソーワ人との間に交雑があったことを明らかにしたことです。私たちのDNAの中には、およそネアンデルタール人のDNAが1〜2%、デニソーワ人のDNAが1%ほど残っていることがわかったんですね(日本人に関して言えば、この比率はやや少ないです)。交雑はそれほど頻回ではなかったものの、歴史上1回か2回はそれが起こったタイミングがあって、ホモ・サピエンスはそこで受け取ったDNAを保持しつづけていると考えられています。それがどういう経緯で起こった出来事なのかを読み解いていくことは、ホモ・サピエンスとはどういう生き物なのかを問い直し、人類の進化をもう一度眺め直すことにつながるでしょう。これが3つ目の受賞理由として挙げられています。

ペーボさんたちがネアンデルタールの全ゲノムの解読に成功したのは2010年くらいですが、それ以降もう本当に大きな変化が起こってきています。つまり、記録として残っている史料を読み解く歴史学であっても、ゲノムサイエンスを必ず取り入れるという時代になりつつあるわけです。日本は残念ながらこの点に関して遅れをとっていると言わざるを得ませんが、こうした革新的な変化は、人類の理解の進展に多大な貢献をもたらすと思われます。

西川伸一氏